1999年
 9月7日
  アメリカでは今日が新年度の始まり。キャンパスにはみるからに若い人相の学生があふれていた。ところで、ラボの方は新年度といっても何も変わることはなく、今日もいつものごとく火曜日恒例のラボミーティングがあり、MITにバスで向かった。もともと午後8時から行われることになっていたミーティングは、新入生の歓迎会があった関係でなんと30分遅れで始まり、終了したのはすでに午後10時を過ぎていた。その後、1週間ぶりに会ったラボ仲間と一緒に野暮用を済ませていると・・・気がつけば時計は午前1時を過ぎているではないか。もう地下鉄は動いてないし、しかたない、歩いて帰るか・・・と歩き始めたのだけれど、さすがに地下鉄で30分かかる道のりを、真夜中にひとり歩いているのもいかにも物騒なので、街まで歩いて出た後タクシーを探して帰ることとなった。タクシーに乗るのはこれが初めてだったが、それにしても、メーターの上がるのが早いこと、早いこと。地下鉄で85セントで帰れる距離が、チップ込で7ドルもかかった(初乗り運賃は1ドル25セント)。以後、地下鉄が動いている時間内に帰るように肝に銘じよう。

1999年
 9月10日
  先週からアレルギーかと思われる症状が現れ始め(どんな症状かを説明するのは控えるけれど、どうやらボストンには「ショウキ(瘴気)」が漂っていて、そのうち王蟲にも会えるかもしれない・・・といったらピンとくる人もいるだろうか)、ちょっとたじろいだりしたのだが、原因はウイルスだろうということで、そのうち治るとのこと。しかし、治るどころか日々悪化していく症状にちょっと恐れをなしていたのだが、心配なら専門医に相談して薬でももらったら良いと言うので(そりゃ当然だ)、MITのラボに行ったついでに、MITのメディカルセンターに立ち寄った。せっかく病院に勤務しているのだから、そこの専門医に診療してもらえば良いというのが道理だが、アメリカでは医療保険のシステムとして、まずprimary care physicianと呼ばれるホームドクターに診てもらって、その後必要なら専門医を紹介してもらうということになっている。そして僕の医療保険はMITのメディカルセンターの医者をホームドクターにしているということで、こうなった次第。
  まず窓口に行って症状を説明すると、予約をしていないならしてからではないと診てもらえないので、今ここで予約しなさい、とのこと。そんな殺生なことをと思いながらも、仕方がないので予約をすることにして、名前を告げた。すると、「お前の名前は登録されていないが、この秋からの新入生か」という耳を疑うようなお言葉。もう3カ月も前に登録したはずなのに。しかし、コンピューターで見つからないものはどうしようもないので、あらためて登録することになり、3階の係りのところに行けとの指示に従った。3階に行くと、やはり一度来た覚えのある場所であり、二重に登録をしてまたまたあとでやっかいなことになるのもいやだったので、らちのあかない交渉を延々と1時間もかけてしたところ、やっと筋が通って胸のもやもやが消えた。要するに以前に提出した書類は全然別のものだったことが判明。ということで、ここで診療を受けるために必要なpersonal physicianをまず選ぶための説明を受けて、後ほど検討してから誰にするかを電話で伝えろとのこと。また、その次の段階として来週木曜日にオリエンテーションがあるのでそれに参加して、ここのシステムに同意できるかどうかを判断して、OKならサインすればそこで初めて予約を取ることが出来る、ということだった。こういう事務手続きは、こんなせっぱ詰まったときじゃなくて、もっと余裕のあるときにさせてもらいたかったところだが、今さら言ったところでどうしようもないので、ただうなずくしかなかった。
  ということで、薬をもらうためにメディカルセンターに行ったことをすっかり忘れてしまうような1日だった。やっぱり病気にはなるもんじゃない。「ショウキ」といっても五月人形の「しょうき(鍾馗)」でも飾って疫病神を追い払ってもらいたい気分。

1999年
 9月15日
  市民の平均年齢26歳という数字が物語るように、多数の学生を抱えるボストンはそれだけ大学の数も多いことになる。当然、研究者も莫大な数にのぼるだろうし、名のある学者もあちらこちらに。さまざまな分野で世界のトップを走る研究者が身近にいることは嬉しいかぎりだが、なかなかそういった人たちに会う機会がないのも事実。しかし、ついにそんな大学者に会えるチャンス到来。今日は糖鎖生物学を研究しているボストン近郊の学者を集めた「Boston Glycobiology Discussion Group」の今シーズンの第1回目の例会が行われて、僕も参加した。有機化学の分野から生化学の分野への進出をねらっているMITのラボのボスに誘われ参加したのだけれど、この会には、P. RobbinsやR. Rosenberg、R. Sacksteinといったこの分野の大御所も参加している。会場はMIT構内のFaculty Clubというところだが、ここはちょっとしたホテル並みのサービスを擁している社交場で、20ドルの会費でディナーつきの例会となった。
  案内には、スタートする時間が「a social hour」とだけ明記されていたのだが、はて、一体何時のことやらさっぱり見当がつかない。そこで、担当者にしかたなく電話して質問したところ、「6時ぐらいに来ればよい」との回答。最初からそう書いてくれればいいのに・・・。会場に到着するとかなりの人がすでに集まっていて、あちらこちらで談笑している。その中でひときわ背の高いボスを見つけるのはまさに簡単で、さっそく近づいていくと、すぐさま知っているかぎりの人に次々と僕を紹介してくれて、ちょっと緊張してしまった。中には仙台を訪れたことのある人も何人かいたのだが、あたりさわりなく無事に会話が出来てひとまずホッとした。
  結局ディナーが運ばれてきたのは7時をすでにまわっていて、国分寺に4カ月住んだことがあるという企業人(アメリカ人)とともに円卓に座り、しばし食事を堪能。当然ながらいつものファストフードとは雲泥の差をかみしめつつ。最終的には40人ほどの参加者で、Discussion Groupという名にふさわしい数といったところだろうか。会のメインは、7月にCalTechからMITに移ってきた新鋭のB. Imperialiのセミナーだった。彼女は、我がラボの隣にラボを構えているのだが、新聞ネタになっていた全米1位の学力評価を受けたCalTechからなぜに3位のMITに移ってきたもんだか、という紹介者の言葉にしばし抗戦。また、セミナーが終わるととたんにさまざまな質問が出て、まさに討論会となった。こりゃいつ終わるんだろうと心配になってきたとき、隣の部屋で突然盛大な拍手が起こり、それに呼応してぱちぱちと拍手がわき出てようやく終了となった。こんな会に発表する立場で参加してみたいものだとしみじみ思ったりした。

1999年
 9月22日
  毎週水曜日は正午からジャーナルクラブが開かれる。といってもHMS(Harvard Medical School)のラボは僕を含めても4人しかいないので、こういうミーティングは隣のラボと合同でということになる。それにしても、なぜに正午から始まるのかと言えば、出席者には無料でピザがふるまわれるからで、それを味わいながら発表者の話を聞くことになる。しかし、これがなかなか難しい。日本語のようにどこか関係ないところで話されていることでも耳に入ってくるのとはわけが違って、一所懸命聞いていないとまだまだ頭には入ってこないという英語力だから、ピザを食べ始めると内容が途切れてしまうし、かといって集中して聞いてしまうと、温かい間しかおいしいとは思えないピザが冷めてしまう。ま、早い話が英語力をアップさせれば解決する問題なのだけれど・・・。

1999年
 9月27日
  今日はMITのラボメンバー、ボス以下総勢13人がフェンウエイパークに繰り出して、野球観戦。レッドソックスが、本拠地であるこの球場で試合をするのも今シーズン最後(プレーオフがあるので実際にはまだ試合がある)ということで、1カ月も前からチケットを確保していたのだが、それにしてもこのラボは1カ月に1回は何かしらのイベントを企画しているような・・・。ま、楽しくて良いのだが。球場では「今世紀最後のレギュラーシーズン」という掲示とともに結構な盛り上がりで(アメリカ人の大多数が今年を今世紀最後の年と考えている)、おまけに今日のピッチャーは、すでに23勝を挙げ、300奪三振を記録しているペドロ・マルチネスなもんだから、午後7時5分開始の時点ですでにハイテンション状態。
  ところで、野球が世界的にメジャーなスポーツだと思ったら大間違いで、ラボのメンバーの中で野球を見たことがあるのはアメリカ人だけだと言っても過言ではない。そんなわけで、今日の仕掛人でボストン出身の熱狂的レッドソックスファンの大学院生の命令で、今日が初めての野球観戦となるドイツ人とアルゼンチン人のポスドクの奥さん2人を僕の両脇に座らせて、僕が解説することとなった。ところが、小さい頃から野球に親しみ身近に存在していた者の説明を、今日まったくもって初めて野球に接する人に理解してもらうのは、まさしく至難の技。なにせ、ストライク、アウト、ヒットの説明からしないといけないのだから。それでもあらためてルールを考える機会にはなったけれど。
  マルチネスの12奪三振あり、ホームランあり、乱闘シーンあり、と盛りだくさんの試合と、試合が終わっても何か釈然としない顔の両脇の2人と、複雑に充実した野球納めだった。


最終更新日:1999年 10月 7日
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