僕は1999年6月からアメリカ・ボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)でポスドクをすることになりました。日本で学位を取ったら海外で研究をしてみたいと思っている大学院生もたくさんいると思います。そんな方々の参考に、どのようにして留学が決まったのか、また決まった後の準備の様子を、実際の行動を日を追ってお知らせします。質問なども逐一受け付けていますので、お気軽にどうぞ。

1999年
 5月27日
  いよいよ出発の日を迎えた。今日の関東地方は朝から大荒れの天気で、至るところの電車が止まっていた。幸い総武線は大丈夫で、東京駅から成田空港駅の運転は実にスムーズだった。しかし、案の定飛行機のダイヤには大きな影響を与えていて、僕が乗るノースウエスト機はどうやら中国から成田でトランジットするらしいのだが、予定時間より1時間は遅れて到着するらしく、いつ出発できるか分からない状況だった。とりあえずそうした状況をISDN公衆電話にノートパソコンを接続して、ボストンのローガン空港で迎えてくれることになっているドイツ人にメールで連絡。すると、その彼からメールが入っていて、空港での目印になる服装が書かれてあった。こういうのを「人間万事寒翁が馬」というのだろう。この悪天候で飛行機が遅れなければ、メールを送ろうとすることもなく、したがって行き違いになる可能性もあったかもしれない(一応こちらの特徴はメールで以前に教えてはあったが)。
  もうひとつ思わぬことが。なんと後輩が見送りに来てくれたのだ。6年以上も同じ下宿に住んだ後輩は、現在神奈川に住む会社員だが、営業周りのついでに成田空港に寄ってくれたらしい。しかし、成田空港がある場所は千葉である。ついでって・・・。ほんとにありがとう。
  とにもかくにも、1時間遅れで飛行機に搭乗し、さらに機中で待つこと1時間。実に2時間遅れで飛行機は中継地、ミネアポリスに向けて飛び立った。いよいよ、アメリカである。

1999年
 5月25日
  ドイツ人のポスドクから連絡あり。ボストンに来てから2週間泊まれるところを確保したので安心しろとのこと。また、その泊めてもらう家の奥さんからもメールをすぐにもらい、歓迎するから安心してこっちに来なさい、なんて言葉までもらってしまった。ただ、ちょうどその期間に旅行をする予定で、残念ながら留守にするが他に3人の同居人がおり、それぞれロシア人、インド人、アイルランド人だから仲よくしてくれという。あるじのいない家にいきなりお邪魔するというのも気が引ける話だけれど、そんなことは大丈夫、と折り返しメール。とにかく本当にありがたい。

1999年
 5月24日
  国際運転免許証の申請と発行手続きのため郡山の運転免許センターへ。申請書の欄を埋めること10分。パスポートと写真を添えて、2,600円の収入印紙を貼って申請。なんと、20分ほどで国際免許証なるものがもらえた。おまけに、「気をつけていってらっしゃいませ」という言葉と共に。あまりにもあっけないので少々とまどってしまったが、これで海外でも車が運転できるらしい。ただうわさでは、アメリカのマサチューセッツ州はあまりの運転の荒さが問題になっていて、外人さん(ようするに我々)が国際運転免許証で車を運転することが出来るのは、アメリカの地に渡って1カ月以内だという。その間に現地の運転免許をあらためて取るようにしないといけないのだ。
  天栄村に戻って、今度は国外転出届の申請。これを出すことによって住民税や所得税がカウントされなくなる。また、国民年金は加入義務がなくなり任意加入となる。カウンターに座っていたのは、何と懐かしい我が中学の同級生ではないか。村役場ということもあって、こんな書類出す人もいないだろうからすごく手間取るんだろうなあ、と思っていたけれども、さすがは我が同級生。たんたんとものの5分ほどで事務処理を済ませてしまった。これで、日本国民でなくなったわけではないけれど、なんか変な気分。ま、いずれにせよ渡米のための手続きはこれにてすべて終了。めでたし、めでたし。

1999年
 5月22日
  初めて仙台の地を踏んではや10年あまり。いよいよ今日は仙台のアパートからの引っ越しの日。とりあえず渡米までの期間、実家のある福島の天栄村に戻ることになった。トラックいっぱいの荷物と胸いっぱいの思い出を詰め込んで、いよいよネクストステージへ。

1999年
 5月21日
  旅行代理店に、ビザとその発行手続きのためにアメリカ大使館に送っていたパスポート、それにボストン行きの航空チケットを受け取りに出向く。初めて見るJ-1ビザ。感動。いよいよアメリカ行きの実感がふつふつと沸き立ってきた。また、6年を過ごした研究室に通うのも今日が最後。入れ換わり立ち替わりあいさつに来てくれる後輩諸君にただひたすら感謝、感謝、そして感動。皆さん本当にありがとうございました。本当にボストンに遊びに来てね。首を長くして待ってますので。

1999年
 5月20日
  大学を離れてしまうとMITとのメールでのやり取りが出来なくなってしまうので、どこにいても電話線からチェックできるように、インターネットプロバイダーのAOL(アメリカオンライン)に加入した。ここは、加入して最初の100時間は無料で体験できるので、とても便利。

1999年
 5月19日
  旅行代理店から待ちに待った連絡あり。アメリカ大使館よりビザが発行されたとのこと。これで予定通り5月27日の成田発のボストン行きの飛行機に乗ることが確定した。早速予約しておいた航空チケットを発券してもらう手続き。また、ボストンに向かう日程が決定したことをMITのボスへ連絡。さらにずうずうしくも現地に行ってから部屋探しをするので、その間の宿舎を用意して欲しいとお願いしてみた。早速の返事には、1カ月前に赴任したドイツ人のポスドクに迎えに行かせるので安心しろとのこと。宿舎もそのポスドクが何とかするから、というありがたいお言葉。

1999年
 4月28日
  旅行代理店のビザ申請代行担当の方に研究室に来ていただいて、ビザ申請のための書類一式を手渡す。ビザが発行されるまで2週間ほどかかるとのこと。連休を挟んでしまうのでさらに遅くなってしまうらしい。6月1日からMITで仕事を始めることになっているので、果たして間に合うか少々不安。しかし、アメリカ行きの手続きはこれで終わりなので、後はのんびりと待つことにする。

1999年
 4月27日
  昨日のメールとほとんど行き違いで、MITのOffice of Sponsored Programsから書類が送られてきた。ちょっとせっかちな日本人に思われたんじゃなかろうかと、少し不安になるも、気を取り直してHFSPへ揃った書類一式を郵送。

1999年
 4月26日
  MITより新しいIAP-66が送られてくる。これでビザを申請するための書類がすべてそろったので、さっそく旅行代理店に連絡してアメリカ大使館へのビザ申請代行を依頼する。後日書類を受け取りに研究室まで赴いてくれるという、ありがたい知らせ。また、以前に郵送していた、受け入れ先の署名が必要なHFSPへ提出する書類がまだ返送されてこないので、MITのボスへその辺の事情説明を求めるメールを送る。この書類がそろわないと、生活資金が振り込まれないので重大問題なのだ。

1999年
 4月12日
  以前にMITより送られてきたIAP-66を、新しいものに替えてもらうために返送する。

1999年
 4月10日
  早速MITの留学生事務局から連絡あり。すでに手続きは進行中とのこと。まずは一安心。アメリカ人の事務手続きは、しつこいくらいに進行状況を確かめないと、なかなか事が進まないとアドバイスされたが、やっぱり担当の人によるのではなかろうか。僕の担当のMITのK女史はレスポンスがいつも早いので、非常に助かっている。ちなみにちょうど1年前の今日は、MITからの手紙が届いた記念すべき日。

1999年
 4月9日
  3月23日に通知したIAP-66の記載変更手続きに関して、MITの留学生事務局からその後連絡がないので、もう一度確認の連絡。今度はFAXで問い合わせてみた。

1999年
 4月6日
  MITのボスから、いくらでも署名するから早く送れとの指示。早速航空便で郵送。ボストンと日本での14時間の時差は、こちらが連絡をしてから家に帰って、次の日出てくると返事が入っているという、なんとも効率がよくてありがたい、と一人満悦。

1999年
 4月5日
  HFSPへ提出する必要書類の中に、受け入れ先のボスの署名が必要なものがあるため、書類を送るから署名して送り返してくれるようにメールでボスに頼む。

1999年
 4月2日
  HFSPから正式な採用通知が郵送されてくる。また、ビザの申請を旅行会社に代行してもらうため、その必要書類を取り寄せる。さらに、GLOBAL PROTECTION, LTD.からAIUの海外傷害保険の保険証書と、英文の保険証書が郵送されてくる。いよいよ海外渡航準備も本格化。

1999年
 3月30日
  日本農芸化学会に参加するため、仙台空港より福岡へ。4月1日に帰仙。

1999年
 3月29日
  6月1日からボストンでの生活が始まることを、GLOBAL PROTECTION, LTD.(AIUの海外傷害保険やJALファミリークラブの申請窓口)の担当の方に連絡。これで保険の保証開始日が決定し、後日保険証書が送られてくるとのこと。MITでの契約に必要な英文の保険証書も、ついでに発行してくれるように依頼。

1999年
 3月28日
  MITのボスから連絡。以前紹介した日本人ポスドクが日本に帰国してしまったので、新しい日本人を探してみるとのお言葉。いやあ、なんて親切な人なんだ。感謝、感謝。

1999年
 3月25日
  東北大学大学院学位授与式。この日から僭越ながら博士となる。ますます頑張らねば。

1999年
 3月23日
  パンパカパ〜ン。HFSPの奨学生として採用する通知がFAXで届く。よっし(V)。折り返し、採用される意志のあることをFAX。これで、6月1日よりMITでの研究生活がスタートすることが確定。また、早速メールにてMITのボスにも連絡。さらに、スポンサーが学振からHFSPへと変更となるので、IAP-66の記載変更を行うためMITの留学生事務局へ連絡。

1999年
 3月16日
  麻酔注射を3本もうって嚢腫の除去手術。30分ほどで終了したが、3針の傷が背中にくっきり。ん〜きずものっていうやつになってしまった(盲腸の手術跡もすでにあるけど)。おまけに通院を2週間ほどしなければいけないらしい。

1999年
 3月12日
  突然背中に異物感が襲う。アメリカに渡る前に病気関係の憂いはすべて除いてしまいたかったので、早速外科に行き診察してもらう。すると、なんとなんと「皮様嚢腫」なる病名をいただいてしまった。単なるできものだというので安心するも、早速来週にも手術して除去するという言葉にまたまたびっくり。ますます忙しくなってしまったが、ま、ここで発症したのも不幸中の幸いというやつか。

1999年
 3月1日
  MITの留学生事務局からIAP-66が郵送されてくる。

1999年
 2月19日
  AIUの海外傷害保険に加入するため、JALファミリークラブへの加入申請を行う。

1999年
 2月5日
  アメリカでの生活費を確保するため、日本の預金をスムーズにアメリカで使えるようにシティバンクに口座を開設する。郵送で事が済むため、らくちん。

1999年
 2月3日
  ボスが見つけた日本人のポスドクの方からメールが届く。面倒見のよさそうな方で非常に心強く思ったのもつかのま、なんと3月末には日本に帰国してしまうとのこと。それまでに疑問はすべてぶつけてしまおう。

1999年
 1月26日
  完成したform BをFAXで転送した後、MITに郵送。

1999年
 1月25日
  IAP-66 application form Bという書類が届く。早速必要な項目をタイプライターで埋める。

1999年
 1月11日
  AIUの海外傷害保険について検討するため資料請求。

1999年
 1月10日
  すぐに申請に必要な書類を郵送する旨のメールをもらう。また、日本人のポスドクが近くのラボにいるので紹介するというありがたいお言葉をもらう。

1999年
 1月8日
  MITにJ-1ビザ(交流訪問ビザ)の申請に必要なIAP-66の書類の申請に必要な手続きを質問する。

1998年
 10月9日
  別に申請していた日本学術振興会の特別研究員の採用通知が届く。やった〜。これで、一応アメリカでの生活費を確保。

1998年
 9月3日
  アメリカでは歯の治療費はめちゃ高いと聞いたので、今のうちに治療してしまおう、ということで通院始める。

1998年
 8月31日
  HFSP本部から書類がすべてそろったという手紙をもらう。これで後は結果を待つのみ。

1998年
 8月18日
  早速添削してもらった文章を清書して、いよいよフランスの本部に郵送。

1998年
 8月17日
  ボスから書類が届いたかどうかの確認のメールが届く。慌てて既に届いている旨の返事を書く。ついでにこちらで書いた文章の添削をお願いする。この頃から、ちょっとずうずうしくなってきている。

1998年
 8月14日
  MITから書類が届く。その書類にタイプライターで慎重に文字を埋めていく(はじめてタイプライターを使ったが、パソコンのキーボードとはまた違って新鮮だった。おまけに便利 !)。

1998年
 8月8日
  MITのofficeから署名をもらい次第、申請書類を郵送する旨のメールがボスから届く。同時に、他にも何か奨学金を探すように促される。それだけ、採用される確率は低いってことですね。

1998年
 8月6日
  ボスから具体的な研究内容を知らせてもらう。申請の書類はインターネットで取り寄せられるため、MIT側の署名が必要な個所はあらかじめサインしてもらって、それをこちらに郵送してもらうことにする。

1998年
 7月24日
  申請のために日本側(これまでの指導教官)と受け入れ側の推薦書が必要なため、それぞれお願いの手紙をしたためる。

1998年
 7月13日
  ボスが学会に行っていて留守にしていたらしく、ようやくメールで返事があった。なにやらHFSPの選考委員に知り合いがいるらしく、採用される申請書の書き方のコツを聞いておくから、是非申請してみなさい、との返事。しかし、この申請書は当然のことながらすべて英語で書かなければならない。この日から英語との格闘が始まる。

1998年
 7月7日
  来年度の海外留学用の奨学金の応募がほとんど締め切られていたため苦労したが、フランスに本部のある「Human Frontier Science Program (HFSP)」という奨学金の締め切りが9月1日というので、応募要項を取り寄せる。同時にMITにメールでお伺いを立てる。

1998年
 6月9日
  MITよりメールにて、ポスドクとして採用する意志があることを告げられる。やった〜!。しかし、付け加えて衝撃の事実が。なんと、研究費は用意できているがお前のサラリーは準備できていない、とのこと。こちらに来る前にどこからか奨学金を工面しろと言う。そっちから誘っておいて、そんな話ってあり?! でも、出来ることはなんでも協力するから頑張れ、との言葉にすこ〜しだけ誠意を感じたので、ま、良しとする。折り返し、メールにて「頑張って奨学金探すよ〜、でもそっちでも探してね〜」と、打電。

1998年
 5月26日
  MITよりメールにて、書類がそろい次第選考にはいるので、1週間ほど結果を待つように言われる。

1998年
 5月25日
  FAXにて要求された書類をMITに転送する。1人の先生には直接航空便で推薦書をMITに送ってもらったため、その旨をボスにメールで知らせる。

1998年
 5月19日
  分野が異なることをどの程度把握しているかを、もう一度確かめるためMITにメールを送る。すぐに返事があり、君の知識が必要だと言われて、ちょっと気分を良くする。3人の先生に推薦書を書いてくれるように頼む。

1998年
 5月17日
  MITよりE-mailが届き、追加書類を要求される。要求された書類は、指導教官の推薦書3通(学部内の教官含む)と学部および大学院の成績証明書。これらをすべてFAXで送れとの指示。

1998年
 4月24日
  分野が多少違うことに悩みながらも応募することを決心し、MIT宛に手紙を書き、航空便で郵送する。
手紙はこちら

1998年
 4月10日
  MITのProf. Seeberger (Dept. Chemistry) から研究室の教授宛に手紙が届き、ポスドクを探している旨を教授より紹介される。降って沸いたような話に面食らいながらも、前向きに考え始める。ちなみに、この時点で私の研究室と彼に一切の面識はない。


最終更新日:1999年 5月 31日