備忘録・2001年8月

日々の出来事やその日に仕入れた情報をお届けします

Sunday, August 19, 2001
 ボストン・レッドソックスのジミー・ウィリアムズ監督が、アメリカンリーグ東地区2位という成績ながら解雇されるという衝撃のニュースから4日。今年、創設100年目を迎えたレッドソックスは、その第42代の新監督としてピッチング・ヘッドコーチのジョー・ケーリガンを昇格させ、プレーオフ出場をかけて仕切り直しと相成った。そして、野茂が先発した今日の正念場の試合で、4番ラミレスが自身14度目の満塁ホームランを放つ(さすが年棒24億円だ)も終盤に猛打を浴びて力尽き、レッドソックスは新監督就任以来2勝2敗というスタートを切った。
 
 5年目のシーズンを送っていたウィリアムズ監督は、次から次へとレギュラーメンバーが怪我で戦列を離れる今年の状況にも関わらずヤンキースにぴったりとついてきていたこの成績を持ち出すまでもなく、勝負師としての手腕は高く評価されるところだったが、その己の勝負哲学からか選手との間に距離をおきすぎて誤解を生んでしまったのが最後にわざわいして、ヤンキースに5ゲームを離されたところで解雇となった。
 
 1918年以来ワールドチャンピオンの座から遠ざかっているレッドソックスは、68年にわたってオーナーとして君臨していたヨーキー家が今年一杯で手を引くこともあって、何としても今年その夢を叶えるために必死になっている状況ではある。がしかし、あまりに厳しい現実。歴代5位となる414勝を挙げ、ここまで4年連続2位という成績の監督がシーズン途中で解雇されるなんて・・・。
 
 ファンとしては人事のプロが下した決断が、シーズン終了までの残り40試合で良い結果を生んでくれることを祈るばかりだが。
 


Wednesday, August 15, 2001
 化学科のSeeberger研で生化学のレクチャーをした。自分の仕事との関連で、「ヘパリンという糖鎖が食べ物を食べたいという意志をコントロールすることに重要な働きをしている」、という先月発表されたマウスでの実験(興味のある方はこちらをどうぞ)について少々の講義。糖鎖の合成をテーマにしている「専門外」のメンバーに、約1時間ばかり眠い目をこすりながら聞いてもらった。

 今日は同僚のドイツ人のポスドクの最後の日ということもあって、僕の発表の密かな楽しみである(少なくとも僕自身には)途中の「ジョークの時間」の箇所に、ドイツ語で書かれた論文の引用のスライドを準備。唐突に僕がドイツ語で説明を始めて彼に助けを求める・・・という手はずだったのに、スライドが写されたとたんにメンバーの中の3人のドイツ人がすぐに気づいてもう笑い出しちゃったものだから、せっかく練習した僕のドイツ語をきちんと聞いてもらえなかった。まあ、喜んでもらえたからいいか。

 ところで、先日我が家に日本放送出版協会から航空郵便が届いた。「基礎英語3」の10月号に写真が掲載されることになっているのはすでにこの欄で報告済みだけれど、まだ8月だというのにその10月号がもう印刷されたのだろうかと思いながら封筒を開けてみると、9月号が入っていた。なんとも、僕が一切関係していない前号の雑誌までわざわざ海外にまで郵送してくれる配慮とは。僕は英語の勉強の9割近くをNHKの番組に頼っていたけれど(今も日本から「ラジオ英会話」のCDを買っているし)、なんだかますますNHKが好きになってきた。

 さっそく、パラパラと内容をながめてみた。なるほど、スキットはすべてボストンを舞台にしたもので、主人公はボストン郊外のベルモントに住む高校生だし、おまけに新聞部に所属している設定なんて、あれまあなんと興味ある内容。おまけに、9月24日の放送では登場人物たちがレッドソックスの試合を見に球場に足を運ぶシーンが描かれているけれど、1番打者の背番号5番がいきなりホームラン!!。背番号5番といえば、最近怪我から復帰したスーパースターのガルシアパーラーのことだけれど、ずっと3番を打っていた彼が1番を打つつい最近の打順は新人として活躍した1997年以来のものだというのに、それをまあなんと予言していたとは・・・。ただ知らなかっただけだったりして。

 さて、もう何人目になるかわからないけれど、またまた東北大学の農学部の後輩を数日前に迎え、MIT構内などを案内。ボストンに辿り着くまでにいろいろとトラブルがあったとのことで、何とも気の毒な体験だったようだけれど、ボストンではそんな不幸を微塵にも感じさせない昔ながらのふるまいに、ホストとして気持ちよく案内できたことに感謝。初めてのアメリカでトラブルに負けない大きな思い出が残ることを祈るばかり。

 今日、8月15日は仙台の下宿のおばさんの命日。おばさんがいつも心配してくれた僕の食生活を公開(先週1週間に口にしたもの)して、供養としたい。ちゃんと、食べてます。どうぞ安らかに。


Sunday, August 12, 2001
 アメリカのブッシュ大統領が、就任以来初めてとなるテレビ演説を先日行った。「胚性幹細胞(ES細胞)」に対する政府の方針についてのもので、国としてこれらの研究に助成金を認めるという発表は、翌日のほとんどの新聞の1面を飾るビッグニュースとして報じられた。日本での注目度がいかほどか分からないけれども、こちらではさまざまな病気の治癒に役立つ可能性を秘めるES細胞研究への期待をかける一般の関心は高く、最も環境が整っているといわれるイギリスへのアメリカからの「頭脳流出」も最近では問題になっていたほど。

 ブッシュ大統領がこの決断を下すために、米国立衛生研究所(NIH)に提出させたレポートの分量は20MBを超えるものだとか。テレビ演説で映し出された大統領の表情は、まさにいろいろな問題を飲み込んでの苦渋の選択をして結論を出したことを物語っていた。演説の中でも「これは私自身の信念に基づいた判断である」ときっぱり。

 これまでは、ES細胞に関する研究には国が援助を一切しない、つまり国民の税金は使わない、という方針をアメリカは貫いてきたのだけれど、それによって民間が独自に研究を進めている現状では国がそれらをコントロールできなくなるおそれがあることを懸念しての決断といえそうだ。もっとも、これまで国が援助出来なかった背景には、心臓や肺、肝臓といったあらゆる臓器に成長する可能性を秘めた万能細胞のES細胞は、受精卵からではなく妊娠中絶された胎児の細胞から作られるため、中絶反対の保守派が徹底して抵抗していたことがあるが、大統領はこうした反対を抑えることに成功したことで政治的にも意味のある決断だと言えるかもしれない。

 この大統領の宣言に先立ち、その1週間前にはアメリカ議会が胚も含めたクローン人間を全面禁止する法案を大差で可決している。科学の分野に及ぼす影響としては、むしろ今回の大統領の演説よりもこちらの議会の法案成立の方が意義は大きいが、一般市民への印象ということであれば、大統領の演説の方が何か凄い決断をした、というように映っている気がするのは、さすがメディアの使い方がうまいアメリカの大統領ではあるなと思ったり。ちなみに、ES細胞はある程度分化の進んだ胎児の細胞から作られるため、万能細胞とはいうものの、個体、つまりヒトを作り出すことは出来ない。

 というわけで8月に入ってアメリカは、科学という一つの分野の出来事ではあるけれども、世界に向けて今後の国の方針をきっぱりと宣言してみせた。一方、日本では・・・参議院選挙で自民党が大勝したのを受けて、国民の総意とばかりに靖国神社問題を近隣諸国に吹きかけて、改革を謳う政府がその実「島国・日本」気質は変わらないことを宣言してみせ・・・。なんか、レベルが違うような。まあ、それはさておき。

 日本で同じ問題について議論している総合科学技術会議の生命倫理専門調査会の第6回議事次第を見ると、日本としての方針を出すにはまだまだ時間がかかるようだ。そもそも、ポストゲノム時代に日本が他の国に勝つためにはどうすればよいのか、なんて議論よりも前に、世界中の人類にとって日本は何が出来るのかといったことを包括する、こうした生命倫理問題にこそリーダーシップを発揮して欲しいなあと思うのだが。


Friday, August 10, 2001
 このところボストンは異常なほどの暑さに見舞われていて、只今午前5時を少し過ぎた時点で、外はまだ暗いというのに外の気温は28℃を示している。昨日の日中は37℃(98F)を超えたそうで、蓄えられた熱を余すことなく我が身に提供してくれる最上階の我が家は、扇風機一つだけでは為す術もなく、サウナ風呂よろしく健康的だとは思えない汗をかくことに。ここのところ午前6時というともう寝ていられない状況だったのだけれど、今日はついに5時に起きるはめになってしまった。

 今日も相変わらず予報では最高気温35℃と騒ぎ立てているし、はてさていったいいつまで続くのやら。

 こうも暑いとアパートではいっさいの思考回路が止まってしまう状況なので、必然的に冷房の効いたラボに居る時間が長くなる毎日を送っている。

 先日、午後10時すぎに帰り道をてくてくと力なく歩いていると、見るからに豪勢な白塗りの高級車がすっと突然横に止まり窓硝子がウィーンと開いて、中からお年を召したおばあさんが道を教えて欲しいと顔をのぞかせた。

 類は友を呼ぶとは良く言ったもので、方向音痴の僕はなぜだか昔から道を聞かれることが多いのはもうすでに何度か紹介しているとおり。この日もまただと思いながら近寄っていくと、ものすごく丁寧に聞き取りやすい発音で質問してくれているにも関わらず、いったいどこに行きたいのかとんとわからない。手には目的地までの行き先を示したメモがあったのだが、通りの名前を並べられても残念ながら車を運転しない僕にはとんと見当もつかず、しばし途方にくれることに。他の人に助けを求めようにも、なぜかその時ばかりは人通りもなく、仕方なくしばらく話を続けていると、ボストンにはめったに来ないというこの方の旦那さんが、急病のため会社から救急車でボストンの病院に運ばれたのだとか。どうやら、幾分気が動転していて病院の名前が出てこないらしい。

 そういうことならば、もうこちらが方向音痴だからどうのと言っている場合ではない。それこそボストンでの2年あまりの生活で得た情報を総動員して、とりあえず片っ端から病院の名前を挙げていくと、ボストンに不慣れなおばあさんが一つ聞き覚えのあるという病院が。幸運なことに、その病院ならハーバード大学のメディカルエリアにあるもので、僕が1年あまり通っていた病院のすぐ近くなので、ある程度地理には自信がある。

 そこで、次におばあさんの手にあるメモの目印の数々と通りの名前が、候補に挙がった病院への道と一致するかどうかを確認。幸いにも僕の記憶と完全に一致し、どうやらその病院に旦那さんが運び込まれたらしいことがはっきりした。と、今度はメモに書いてある場所から現在地はだいぶ道がそれているので、そこまでの道のりを伝えるのがまた一苦労で、我が身の方向音痴やら英語力やらをうらむことしきり。

 旦那さんの安否を気遣ってそれはもう急いでいただろうに、とんと要領の得ない輩に遭遇してしまったお詫びに、おばあさんの車を方向転換すべく流れる車を止めるために、えいやさっと自分としては決死の覚悟で大通りに立ちはだかったことで許してもらおう。行動につながる心は、文化が違えども一緒のはずだから。

 初めは心細そうな表情のおばあさんだったが、別れ際には「あなたがこれから彼女のところに行くのを邪魔しちゃったのじゃなければいいけど」なんて声をかけてくれる余裕をみせて、ふふふと笑ってくれたのを見て、こちらも少しホッとした。こちらのご心配には及びません。

 その後、あのおばあさんが無事に目的の病院に辿り着けたことを祈るばかり。なにより、旦那さんの元気な姿に会えたことを祈りつつ。


Tuesday, August 7, 2001
 1822年にイギリスで誕生したシャープペンシルは、後にアメリカに渡って「エバー・シャープ」という名前で売られ始め、その後日本では東京の金属加工業の早川徳次さんが「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」という名前で売り出した。1916年のこと。以来、日本ではシャープペンシルという名前が定着している。ちなみに、早川さんは関東大震災で工場を失い、その後大阪に移ってラジオを作り始めた。これが今の大手電気メーカー「シャープ」の始まり。つまり、世界の「SHARP」とシャープペンシルは切っても切れない関係にある。

 誕生から180年を数えるこのシャープペンシルも、日進月歩の進化を遂げていることは意外に知られていないかもしれない。1976年にパイロットが開発した芯を2点で支えて最後の1ミリまで使えるようにしたものは、初めは2000円の高級タイプに採用されたけれど、今ではどこの会社でも300円ほどでこのタイプのシャープペンシルを生産している。また、最近良く見かけるカラーの芯は、実を言うと画期的なもの。普通の鉛筆の形では六角形の物を良く見かけるのに、色鉛筆では丸い物しか見かけないのは、まさにこの芯の強度の問題で、鉛筆を落としたときに芯が折れないように衝撃を吸収するのに六角形では少々無理で、丸い形でないと具合が悪いからだ。それほど弱いとなると、どだい0.5ミリのシャープペンシル用の芯なんてのは作れそうにないのだが、三菱鉛筆は芯を固めるのにワックスの代わりにセラミックスを配合することでこれに成功している。

 シャープペンシルも奥が深い。

 なぜ、今日はこんな話をしたのか。それは、ご想像にお任せ。ちなみに、アメリカでシャープペンシルのことは「MECHANICAL PENCIL」というそうで。


Sunday, August 5, 2001
 毎週日曜日の大事な大事な日課の一つの「洗濯」をするためには、4ブロック離れたコインランドリーまでえっさほいさと洗濯物を担いで行かなければならないのだけれど、今日もいつものようにそこまでブツを運んで行くと、なんともはやそのコインランドリーが閉鎖されていた。しかたなくその近くにもう一件ある別のコインランドリーに出向くと・・・案の定、この地域の独占状態を見越してか、先月まで一回1ドル75セントだった料金が2ドルに上げられていた。

 これも商売上手ってことなのかな。

 さて、アメリカでNFLに挑戦している元横綱・若乃花こと花田勝が、アメリカンフットボールの経験を積むべく、日本のアマチュア組織であるXリーグに属するオンワードでアメフトデビューを飾ることになった。確かに、小さい頃から相撲一筋に生きてきた彼のことだから、アメフトの試合経験をいっさい踏まないで本場のプロになろうというのも無理な話ではあるから、アマチュアとは言え試合に出てその経験をまずは積むという選択は悪くはないと思う。でも、これってやっぱり「オンワードに就職」ということになるのか。

 7月31日のトレード期限(この日までにトレードされた選手はワールドシリーズのプレーオフに出場することが出来る)ぎりぎりに、モントリオール・エクスポズに交換トレードされた大家投手がアストロズを相手に土曜日に登板したが、0対0の息詰まる投手戦を展開するも力一歩及ばず、敗戦投手となってしまった。

 エクスポズの所属するナショナル・リーグは、投手もバッターとして打席に立たねばならないから、横浜でプレーしていた大家投手にはなじみのシステムのはず。それになんと言ってもエクスポズには一時代を築いた伊良部投手と吉井投手もいるから、ある意味で得難い環境を手に入れたのかもしれない。エクスポズと言えばペドロ・マルチネス投手やジェイソン・バリテック捕手が育った場所で、若手養成には定評のあるチームだから、彼も次へのステップの足掛かりにして欲しいものだ。

 YABeT's Boardでは、モントリオールに移ったとはいえ僕と同じ時期にアメリカに渡り、同じボストンでその活躍を目にした縁を大切にして、今後も大家投手を応援していこうと思う。

YABeT's Board ところで、直接このページをご覧になっているみなさんにお知らせです。もうすぐ30,000アクセスを記念してトップページを模様替えしてみました。ついでにリンク用のバナー(右)も作りましたので、どうぞご利用ください。どうぞ、今後ともよろしくお願いします。


Saturday, August 4, 2001
 故郷・天栄村の夏の風物詩と言えば・・・「ウルトラクイズ in てんえい」という大クイズ大会。

 この大会が始まったのは7年前。天栄村に住む若い人たちが、どうしたら自分たちの村にたくさんの人たちを呼べるかと頭を突き合わせて企画し、村制40周年記念の事業として実行委員会形式で始まったもの。村の手作り企画だからとバカにしちゃいけないよ。オリジナルにより近づくべく、大会は完全に日本テレビと福島中央テレビのサポートを受け、当初の思惑通りたくさんの人が天栄村を訪れてくれるイベントになり、またその模様を放送する番組も今では福島の名物企画番組になっているとか。おまけにクイズファンのあこがれの本物のウルトラハットをかぶって、決勝戦早押しクイズに優勝すると、賞品はまさにニューヨーク旅行という本格派。「ニューヨークへ行きたいか〜!!」と、まさに絶叫もののイベントに成長している。

 昨年は初めての地元からのチャンピオンが誕生し、僕もいつか出てみたいと思っていたのだが・・・なんと今年でこの企画も終了してしまうとのこと。なんともはや、残念だ。出たかったのに。

 というわけで、最後の「ウルトラクイズ in てんえい」は8月19日(日)に天栄村で開催。是非是非、このイベントに参加して天栄村を満喫してくださいな。出場希望の方はウェブサイト(http://www.ne.jp/asahi/ultra/tenei/index.html)から申し込み受け付け中。


Fridya, August 3, 2001
 午後8時すぎ、ふと化学科のラボを見渡して、金曜日のこの時間まで残っていたのは、生化学チームの僕と一緒の大学院生と、独身のドイツ人のポスドクが二人。みんな黙々と手を動かして仕事をしている。

 なんだか早く帰らねばという、なかば強迫観念に駆られ外に出てみると、ひさびさのどしゃ降りの雨の真っ最中。まあ、すぐに止むだろうと歩き出すと、激しく雷を響かせてますます雨足は強くなり、ハーバード橋のちょうど真ん中で、それはもう一歩も足が進まないほどの雷雨に合うはめに。傘を差してはいたけれど、雨に濡れない箇所はもう頭だけという凄まじさで、引き返すわけにも行かずそのまま歩き続けた。しかし、ふだんなら何人もの人がジョギングをしているこの道を行き交う人に全く会わないもんだから、ますます心細くなってほとんど視界ゼロの遠くを見ながらぼんやり。

 もうすっかりびしょびしょに全身を濡らして家路を急いだのだけれど、ふとアパートの近くまできて、夕食をまだ食べていないばかりか、部屋に戻っても食糧など何も無いことに気付いた。まあ、別段珍しいことではないのだが。

 夕食抜きを決心させるに十分な雨の強さではあったけれど、いかんせん何時になく腹の虫の鳴き声がうるさく、とても明日の朝までもちそうにないから、しかたなく中華のファーストフードを手に入れるべく近くのフード・コートに直行した。注文した中華セットを受け取ってもイスに座る事もできずに、立ったまま食事をまさに口にかき込んで、ようやく一件落着。外に出るともう雨はだいぶ小降りになっていた。

 やっぱり、家に帰ろうと思った動機が不純だったからなあ、罰が当たったか。

 さて、時間は少しばかりさかのぼり、夕方頃には2年前にドイツに帰ったポスドクが学会の帰りだということでラボに顔を見せてくれ、久々に懐かしい顔に対面した。彼女は、4年前にSeeberger研が立ち挙げられた時のポスドク第1号で、姉さん肌の世話好きな性格もあってか、まさにこのラボの長女的存在で、僕もだいぶお世話になった人。

 彼女曰く、2年前にドイツに帰ったとき「Seeberger研の出身だ」と言っても誰も知らなかったそうだが、昨年あたりから「ああ、何か聞いたことがある名前だなあ」とちょっと変化があり、今は学会で名前を口に出すと「そりゃ、もちろん知ってるさ」と言われるのだとか。我がボスも、こういう状況を作ってくれているメンバーにもうちょっと感謝すべきだよ、とは彼女の弁だけれど、それは、ボスの前で言って欲しいね。

 2年ぶりにこのラボ出身のポスドクに会ったりすると、僕もずいぶんここに長く居るんだなあとしみじみ思ったり。さてさて、いったいいつまで居るのかは、これからの仕事次第。


Thursday, August 2, 2001
 アムステルダム大学から夏休みを利用して生物学科のRosenbergラボに研修に来ていた学生さんが、一通りの実験を終えてオランダに戻ることになり、ボス以下総勢15人がMITの近くのイタリアンレストランに繰り出し、炎天下の下で道行く人を眺めながらのお別れランチとなった。

 この学生さんは実を言うとアメリカ育ちのオランダ系アメリカ人で、MITを卒業するとすぐにアムステルダム大学の大学院に移り、現在博士課程に在籍して学位を取るために勉強している。彼女はMITの学生時代にやはりこのラボに出入りしていたようで、ボスをはじめとして古株のポスドクの方々にはもうかなりなじみの顔で、今度学位を取ったあかつきにはまたここでポスドクをしなさいと促されていたり。

 それにしても、青空の下で大勢でわいわいがやがやと食べるイタリアン。味もなかなかだったが、その雰囲気がなんとも得も言われぬ温かさでとっても良かった。みんなボスのおごりだというのが、またほどよく妙味を演出していたりするのだが。

 さて、今日はソフトボールの最終戦。4番に座ったここ3試合全てに負けていることもあって、今日は4試合ぶりに3番を打つことになり、3番・サードでのスタメン出場。

 それぞれ人には適した場所があるようで、今日はいきなりタイムリーヒットでスタートすると、センターへの大きな犠牲フライと、ライト線を破る三塁打も飛び出して、まあそれなりに責任を果たす活躍。試合も4対2での勝利で、今年の締めくくりとしては満足のいく試合となった。

 ソフトボールに限らず、僕は「主役」の器ではないようで、二番手とか右腕とかといった場所が性に合う。「脇役」としていぶし銀の光を放つべく、分をわきまえて精進することにしよう。


Wednesday, August 1, 2001
 ちょっとした調べ物があって「The World of Caffeine: The Science and Culture of the World's Most Popular Drug」(Weinberg, B. A., Routledge: New York. 2001)という本を読んでいたら、その中にアメリカのコーヒーショップで出している「Decaf(カフェイン抜き)」製品の中のカフェインの量を測定しているところがあった。それによると、まがい物度がもっとも高いのが「Starbucks」のもので、6 oz (177 cc) のカップの中には25 mg のカフェインがまだ含まれているそうだ。

 普通のコーヒーには180 mg のカフェインが含まれているそうなので、カフェインがだいぶ減量されていることは確かだが、なんだかキツネに包まれているようではある。ちなみに「Dunkin' Donuts」(日本で見かけるミスタードーナッツの創業者のお兄さんが始めた店で、ボストンに本店がある。今は見かけないけれども、ミスタードーナッツの1号店もボストンにあった)のそれは 10 mg とのこと。

 ただし、カフェインはコーヒー豆以外にも、ココア豆、茶葉、コーラナッツに主に含まれているので、これらを使用した食品には、もちろんカフェインが含まれているということになる。板チョコ一つには 12 mg のカフェインが含まれているし、コカ・コーラの 350 cc 缶を一つ飲み干せば同時に 46 mg のカフェインが体に入っていくこととなる。

 「カフェイン抜きで」なんて言いながらコーヒーを注文しつつ、チョコレートケーキなんぞを食べている人がいたら・・・知識はまんべんなく仕入れてこそ活きてくるのである。

 余談ながら、体に入ったカフェインは通常であれば3時間から7時間ほどで体内で分解されるそうだが、妊娠中の女性は18時間ほど体内に留まり、また生後3、4カ月の頃も消化するのに14時間ほどかかるという。僕が大学に入学して間も無い頃、寝る直前は言うに及ばず、たとえお昼にコーヒーを飲んだとしてもその夜はもう眠れなくて困ったものだったが、はは〜ん、さては僕のカフェインを消化する能力は、乳幼児並みだったのか。



最終更新日:2001年 10月 22日