備忘録・2002年1月

日々の出来事やその日に仕入れた情報をお届けします

Sunday, January 27, 2002
 やってくれましたペイトリオッツ(ちなみに、アメリカ人の中にはパトリオッツと発音する人もいる)。アメリカンフットボールのボストンを拠点とするニューイングランド・ペイトリオッツが、1997年以来のAFCチャンピオンに輝いて、アメリカ国民が最も熱狂する日といわれる来週のスーパーボールにいよいよのぞむことになった。

 今年のスーパーボールはニューオリンズでの開催だけれども、奇しくも過去2回のペイトリオッツの出場は、いずれもこの地でのもの。まあ、1986年と1997年の時にはそれぞれベアーズとパッカーズに負けているから、あまり縁起の良い場所ではないのだが。

 それにしても今日の試合たるや。ビデオに撮って観戦したのは、メディアというメディアがスティーラーズの勝勢を伝えていただけに、別に今日で今シーズンのアメフトも終わりと腹をくくったわけではないのだが、そんな前評判を大きく覆す活躍ぶりにもう大満足。AFC随一を誇るディフェンスとスペシャルチームの活躍によって、これしかないという100%の力を出し切っての勝利には、ホント涙があふれるほどだった。

 なにより、今日のQBブレッドソーの格好良かったこと。彼は、シーズン前に10年で総額130億円という契約を結んで、いざ昨年の不振の汚名返上と意気込んだ矢先に、シーズン2試合目での怪我によって、戦線を離脱。今季の目も当てられない下馬評の低さをさらに確固たるものにする張本人として槍玉に挙げられるところを、彼の復帰までのつなぎとして入ったはずの新星ブレィディーの見事なまでの救世主ぶりに、いつしか表に出ることもなくなり、ブレッドソーのプレーはもはやペイトリオッツでは見ることが出来ないかと思われたが・・・。

 なんとも、前半早々にそのブレィディーが怪我によって退場し、代わりに実に126日ぶりとなるブレッドソーの雄姿がフィールドに。素人目にもちょっとブランクを感じさせるプレーではあったが、現代QBスタイルの先駆けと言われるチーム随一の長身から繰り出されるプレーの数々は、やはりしっくりとペイトリオッツになじみのあるものだった。

 そして、勝利を確実にした瞬間に、そのペイトリオッツのシンボルの座を奪われたはずのQBは、ヘルメットの奥の鋭いまなざしがみるみる間に優しくそして赤く充血し、最後のプレーの前には思わず手で涙を拭うしぐさ。こんな時にフィールドに立たせてくれるとは、アメリカのお天道様もなかなかに慈悲深いとみえる。「史上最高の控え」と言われてもここまで決して腐ることなくチームを支えてきたことは、ちゃんとお見通しだったわけだ。

 さてさて、僕のボストン最後の思い出に、スーパーボールにひいきチームが出場なんてこんな大きなプレゼントを用意してくれたのは、果てさてご先祖様のおかげやらお天道様のはからいやら。いずれにしても、どうせならもう一つ大きなトロフィーを頭上にかざすブレッドソーの笑顔を見てみたいものだが。


Sunday, January 20, 2002
 人の交流の激しいアメリカの研究室の常ではあるが、もう何度目になるだろうか。化学科のSeeberger研を卒業し、ボストンの企業に就職したアルゼンチン人のポスドクの送別会があり出席した。

 彼はこの研究室で唯一の僕より長い在籍を誇る人物。生物学系の研究室では、5年以上同じ研究室に留まるポスドクも多いけれど、なぜか化学系ではそういう例は極めて少ないようで、かくして僕はこの研究室の最長老ということになってしまった。まあもっとも、その地位もあと1か月だけのものではあるが。

 ところで、今週末に東京の有楽町朝日ホールにて「ゲノム情報を越えた生命の不思議-糖鎖-」と題する公開シンポジウムが開催される。参加無料なので興味のある方はどうぞ・・・と紹介しようと思ったら、なんと参加希望多数につきすでに参加申し込みは締め切ってしまったとのこと。ふだん僕が「糖鎖、糖鎖」と何を騒いでいるのか、この講演タイトルを見るだけでも、何となく分かってもらえるかもしれないなあと思ったので、全く使えない情報ながら紹介した次第。

 それにしても、二日間に亘って日本人だけで講演をして、参加希望者がホールの収容人数を超えるほどにこの分野が少なからず注目されているとは、我ながら思いもしなかった。これから日本に帰るにあたってこれは大きな発見となった。まあもっとも、講演者の顔ぶれを見ると、もうまさに大御所の共演といった様相漂う蒼々たる顔ぶれだから、僕自身がこのシンポジウムに参加出来ないのが一番口惜しいのだが。

 糖鎖に直接関連しているわけではないけれど、アルツハイマー病の原因となるβアミロイドを作り出す酵素の本来の仕事が、実は糖鎖を作るために必要な酵素を生理的に分解して糖鎖の構造を変えるために必要なものであることが分かった、という理研のグループの昨年末のニュースが、なんだか大きく人々を触発したのかもしれないなと思ったり。この酵素の存在はかなり昔から知られていて、アルツハイマー病を抑える薬の開発のターゲットとして盛んに研究が行なわれているけれども、アルツハイマー病ではない健康な人の体の中で果たして何をしているのかは長年の謎とされてきたから、それが糖鎖と関わりがあったというのは、これまでのこの分野の日陰ぶりを示すと同時に、これからどうこの分野がベールを脱いでいくかという期待を大いに抱かせるニュースではある。

 というわけで、遅々として進まない帰国準備を横目に見ながら、せっせと仕事をしているボストンな日々。


Sunday, January 13, 2001
 先週の結婚式の模様を撮影した200枚を超える写真は、全部とはいかないまでもその瞬間を後世に伝えるという役割はなんとか果たせそうな作品に仕上がってきたので、まずは一安心。主役のお二人からもありがたいお礼の言葉をいただいたので、ほっと胸をなで下ろしているところ。

 さて、今年のメジャーリーグは、新たに日本から石井一久、小宮山、そして田口を加えて、日本人には身近なものとなってますます面白くなりそう。そんな中、ネットで田口がカージナルスへの入団を決めたコメントを見つけて、うーんとうなってしまった。これは乙な目の付けどころ。

「トニー・ラルーサ監督の下で一度やってみたかった」

 この田口のコメントに、イチローと同じ年にしかもドラフト1位(鈴木一朗はドラフト4位での入団)でオリックスに入団した一流の野球人としての、常に上を見つめる気概を感じたのは僕だけではあるまい。

 1944年生まれのTony LaRussa監督は、34歳でシカゴ・ホワイトソックスの監督に就任して以来、3度アメリカンリーグの最優秀監督賞を受賞するなど、「知将」という称号をほしいままにしているその人である。おまけに、メジャーリーグ史上4人目の弁護士の資格を持つ野球人としてもその名を知られている。

 フロリダでホワイトソックスのマイナー組織の2Aの監督をしていた30代前半に、彼はフロリダ州立大学の法学大学院を3年かけて卒業し、卒業するや3Aの監督に昇格。翌年にはシーズン途中に34歳の若さでシカゴ・ホワイトソックスの監督に就任して、さらにはそのシーズンオフにフロリダ州の弁護士試験に合格。

 世間にはいろんな人が居るというけれど、プロの野球人としての職にありながら、同時進行で弁護士の資格も取得してしまうというバイタリティーたるや。田口でなくとも、こんな人の下で一度働いてみたいものである。

 果たして、メジャーの深さを体現しているようなラルーサ監督の下で、田口はどんな成長を見せてくれるのだろうか。今年はセントルイスからも目が離せない。


Wednesday, January 9, 2002
 この月曜日から、Rosenberg研にフランス出身のポスドクが新たに加わったのだけれど、いろいろと立ち上げの準備が忙しかったらしく、今日まで言葉を交わすことも無く時間が過ぎてしまった。そして今日、夜も遅くなっての帰りがけにようやくそのチャンスが巡って来た。

 彼女にとってはヨーロッパからアメリカに渡ってくるのは初めてのことだそうで、ヨーロッパ人特有のなまりの残る英語で(実を言うと彼女がフランス人だとは話を始めるまで気が付かなかった)、しかしこれまたヨーロッパ人に共通のよどみなく進む会話にしばし談笑。英語を勉強したのは中学校から高校にかけての5年間だけだそうで、それから今こうしてアメリカという土地の上に立つまでの12年の間、ほとんど英語なんて使ったことがないとか言いながら、ペラペラとまくしたてるわけだからまったくもっておそれいるほかない。

 まあ、これだけのことなのだけれどなぜに「備忘録」の話題になっているのかといえば、当然新しい発見があったからに他ならない。いつだったかこの欄で触れたかもしれないが、少しばかりフランス語をかじったことがあるというのに、考えてみればこれまでは本で文法を中心に勉強するばかりで、今日初めて生のフランス語に接したことにふと気が付いた。

 どこから来たのと質問すると「ばーひぃ」という答えが帰ってきて、はてどこの町かいなと途方に暮れて近くの大きな街の名を聞いてみたけれど、返って来たのはものすごく怪訝な顔。これは英語名とフランス語の当地の名前が違うパターンだなと思いあたり、英語では何て言うか知っているかと尋ねてみると、間髪入れず「パリス」とのお答え。

 このとき僕は、前述のことにふと思い当たったという次第。はあ、「パリ」のフランス語での生の発音も知らずにフランス語を勉強してたのかあ。

 「語学」を勉強するとなると、その言葉や文化を理解するには相当の時間がかかるものだけれど、そのくせその言葉をあやつる人たちと、いざ会話をしようと思ってもなかなか思うようにはいかないのは、日本人の英語学習の例を出すまでもなく明らかである。さらには、その国の言葉や文化を生々しくその手中におさめたいと思えば、その国の人たちと会話をすることこそ何にも代えがたい勉強であることも明らかである。

 そこで、まずは「話学」を身に付けて未知なる言葉へ入っていこう、というのは僕が日本でただ一つ継続して勉強していたNHKラジオ「英会話入門」の遠山顕さんの言葉。英語だけでなく、そのココロは他の言葉にも通じる、ということに恥ずかしながら気が付いていなかったのかもしれない。

 というわけで、「話学」が大事。


Saturday, January 5, 2002
 ボストンに到着して3日と経たない日に初めてお会いしたFさんとOさんとは、Fさんが同じ東北大学の出身ということですぐさま意気投合し、以来、ボストンでの暮らしに彩りを加えるが如くお二人にはいろいろとお世話になっているけれども、今日はそのお二人の結婚式がMITチャペルにて執り行われて僕も参加した。お二人の結婚式らしく、一から手作りの結婚式を友人たちがバックアップ。僕も式の様子を伝えるというカメラマンとしての参加で、新郎新婦に一番近いところからお二人の晴れやかな華やかな雰囲気をおすそ分けしてもらった。

 カメラ好きといっても、普段はもっぱら風景写真を撮ってばかりいるものだから、果たしてうまいこと幸せな雰囲気を記録として残せるのかどうか心配していたのだけれど、昨日のリハーサルあたりからいつもの「根拠のない自信」がもたげてきて、本番では不思議と冷静に対処できていたような気がする。とはいえ、そこは大きな責任が背中に負われていたようで、この寒空だというのにスーツひとつで一人汗をかきながらの撮影となったが。

 式を取り仕切ったプロテスタント長老派の牧師さんも、かなり厳格な方かと思いきや(長老派は長老政治による教会の使命を維持しようという会派)、とても気さくな穏やかな人で、「類は友を呼ぶ」なんて言葉をしみじみと思い出したり。

 とても感動的な式の後は、新郎の上司であるとあるMIT教授のお宅に移動してのレセプション。こちらを取り仕切る女性教授が、またなんとも嬉しそうに終始にこやかに振る舞っていたのが印象的だった。新郎新婦手作りのケーキに、友人によるコントラバスとキーボードの生演奏、さらにはピンポンの余興まであったりして、本当に朗らか和やかとびっきり楽しい結婚式であった。

 「YABeT's Board」から心を込めてお二人に・・・末永くお幸せに

 ところで、今日の責任を全うすべく調子に乗ってパチパチと写真を撮っていたら、なんとも36本撮りフィルム7本を消費していたのだけれど・・・、これ本当にうまく撮れているのか今になって不安になって来たぞ。


Friday, January 4, 2002
 明けましておめでとうございます

 さて、昨年最後の備忘録にて「ちょっとした変化がすぐそこに待っている」と書いたけれども、2年半が経過したボストンでの生活に別れを告げて、来たる2月末にて日本へ帰国することとなった。

 果たしてどの程度思い通りに事が進むか分からないけれど、帰国までの準備やらどたばたぶりやらそんな様子を、この備忘録でみなさんにお届けしていきたいと思います。同じように帰国に向けて不安を抱えている方々の参考になれば。

 どうぞご期待下さい。

 というわけで、今年もYABeT's Boardをよろしくお願いします

 ところで、暖冬と言われている今年のボストンだけれど、ついにチャールズ川の川面のところどころが凍結し始めているのを発見。ふつう、川が凍るときと言うのは、流れの遅い川岸からだんだんに中心に向かって凍っていくけれども、ここは川幅が500mもある河口の地点だから、川全体がすでにゆったりとした流れになっていることもあって、ところどころに出来た氷の固まりを中心にして周りに広がっていくようだ。

 朝夕のハーバード橋を行き交う人の数もめっきり減って来て、いよいよボストンは真冬モードに突入。



最終更新日:2002年 2月 17日