12月19日   中国の国家主席である江沢民主席が、先日、仙台を訪れた。国賓が仙台を訪れるというのは、戦後初めてということで街は大変な騒ぎで、全国から警官が集められ、警護を行っていた。特にその時期は同時に冬将軍も突然来仙し寒い日が続いたので、仙台に出張してこられた方は本当にご苦労さまでした。ところで、なぜ江沢民主席が「仙台」を訪問したのかについて、即座にピンと来た人が実は少なかったようだ。つまり、現代中国への変革に文筆をもって身を投じた作家、魯迅(ルー・シュン)が、1904年から1年半の間留学生として仙台医科専門学校(現在の東北大学医学部)に通っていたことにちなんでいるのだが、あまり知られていないらしい。魯迅は「狂人日記」や「阿Q正伝」など多数の小説や雑感を発表し、世界的に知られた作家である。また、1936年に上海で亡くなったとき、その葬儀で魯迅の棺を担いだのが、毛沢東と孫文の夫人である宋慶齢だったことからも、「中国文化革命の主将」といわれる魯迅の現代中国での評価が察っせられよう。
  しかし、魯迅は日本すなわち仙台に良い思い出ばかりを残して中国に帰国したわけではない。どちらかといえば、様々ないじめに遭い、そして医者としての人生を捨て、文筆業へと転換させられた地でもある。学校での成績が良いと、下宿に匿名の手紙が投げ込まれ、「弱国である中国の国民は低能であるはずなのに、何をしたのだ」とあらぬ疑いをかけられ、嫌なうわさに悩まされた日も多かったようだ。また、日露戦争の最中ということもあり、ロシアのスパイの嫌疑をかけられた中国人が無残に首を切られるシーンを写した幻灯に、日本人学生が熱狂するのを、悲しい気持ちで見つめるしかなかった。ただ、この「幻灯事件」と呼ばれる出来事をきっかけに、「愚弱な民が虐げられるのは当然で、自ら覚醒するしかない」ことに思い至り、後の魯迅を作ったのもまたこの仙台であるが。
  そんな魯迅の心の支えとなった人物がいる。仙台医科専門学校の解剖学の先生だった、藤野厳九郎である。後に「藤野先生」という小説で中国で一躍有名になった人物だ。この小説のおかげで、中国人が知っている日本の土地を挙げてもらうと、必ず仙台が含まれているそうだ。藤野先生は魯迅の日本語が十分でないのをみて、講義ノートを持ってくるように指示し、魯迅のノートを文法の誤りまでも含め朱筆で添削したのである。実際に、このノートを以前見たことがあるが、本当に見開きページが赤く見えるほど、書き込まれていたのを覚えている。魯迅は北京に帰った後も机の前に藤野先生の写真を貼り、写真の裏に先生が書いてくれた「惜別」という文字を見つめながら熱いものを感じ続けたといわれている。中国を変革するための魯迅のエネルギーとなったとも言える「藤野先生」だが、残念ながら日本では全くと言っていいほど無名の人物である。彼は、仙台医科専門学校が東北帝国大学の医学部に昇格したときに教授になれず、故郷の福井に帰り開業医として一生を送ったそうだ。そして、終戦の年に、患者の家に駆けつける途中に息絶え、この世を去っている。
  自分の健康のことを顧みず、死ぬ間際まで患者のことを思い、そして路傍でその人生を締めくくった藤野先生の生きざまは、魯迅のエネルギーとなるに十分に足りるものであった。魯迅がこの最後を知ったならば、尊敬してやまなかったその思いを、さらに強めたろうと思う。やれ、グローバルスタンダードだ国際化だと騒ぐ中で、そぎ落とさなくても良いものを、かなぐり捨ててまで前に進みたくはない。人へのやさしさ、思いやり。そんな、人間としてもともと備わっているものを、無理せず人に与えていくことが、そんなに難しいことだとは思えない。大上段に構えた行為の発するエネルギーを受け取るのは、これまたエネルギーがいるものだ。魯迅という「偉人」を支えた「無名」の藤野先生をこそ、大いにわれわれの手本としたいと今せつに思う。

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11月25日   ここのところ宮城県内から次々と「日本最古」の遺跡が見つかっている。正確に言えば、宮城県内から見つかる石器が、見つかるたびに「日本最古」の記録を更新している。どうして「いま」同じ地域からそうしたことが起こるのだろうと思って、ちょっと調べてみたら、その理由はとても簡単なことだった。これらの数々の仕事すべてが、たった一人の人の発見によっていたのだ。すなわち、原人の気持ちがわかる現代人が、宮城県に住んでいた、そういうことだった。
  県内の富谷町に住む藤村新一さんは、たいそうな考古学の大学者かと思いきや、計器メーカーに勤める48歳のサラリーマン。いわばアマチュアの石器マニアだ。知る人ぞ知る「石器掘りの神様」と呼ばれる人で、この世界では学者も一目置く存在だそうだ。しかし、大学で考古学を学んだわけではなく、高校を卒業してすぐ就職すると、土日を利用して自転車でひたすら石器の採集に明け暮れた。メノウ、黒曜石、へき玉など、見ているだけで満足だという。
  大和町の約30万年前の中峰C遺跡、築館町の約50万年前の高森遺跡、そして同じ築館町の約60万年前の上高森遺跡で、次々と石器を掘り当て、科学的な年代観測による裏付けの後、「日本最古」の記録を更新してきた。なによりもすごいところは、高森、上高森の両遺跡はもともと遺跡でもなんでもなかったところからの発見だというところが、神様の神様たるゆえんである。そしてまた最近、藤森さんの名声を高める発見が色麻町であった。30kmも離れた山形県尾花沢市の袖原3遺跡の石器などと断面が合う中期旧石器時代の石核を、この色麻町の中島山遺跡の約10万年前の地層から見つけたのだ。これで、中島山遺跡は中期旧石器人の石器制作現場だったことがわかり、当時、経済的な意味での石器素材の貯蔵を目的としていたことがわかる大発見となって、いま日本中の考古学者を賑わせている。「人には見えない火山灰層の線が見えるんだ。火山灰層の赤の中にもいくらか暗い旧地表面があるんだよ」(毎日新聞より)と言う本人の弁だが、まさに神業である。藤村さんが師と仰ぐ芹沢長介・東北大学名誉教授もまた、「旧石器時代の地層は、旧地層を読める特殊な才能を持つ藤村君のような人がいなければ見つからない。石器のにおいでもするのだろうか」(同)と不思議がる。
  藤村さんの夢は、100万年前の石器を掘り出すこと、そして、原人の骨を掘り出すことだそうだ。小学校2年生のときに裏の畑で見つけた土器が、約5000年前のものと教師から教わってから、太古のロマンを夢見続けている。ひとつの体験を一生のものとできる感受性を、うらやましいとばかり言ってみても始まらない。石器ではないが、素材はそこらじゅうに転がっているはずだ。「楽しきと思うが楽しさの基なり」とは、僕の大好きな言葉だが、自分の気持ちに純粋に反応すると、意外と楽しいことって身の回りにあふれていることに気がつくだろう。常識に縛られてしまっては真実は見えてこない。周りが何と言おうと、己の感じたことを信じて突き進む勇気もまた、ロマンだと思うのだが。

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11月8日   サッカーのJリーグ第2ステージも残すところあと1試合。僕の応援するアントラーズが最終戦で勝てば文句無しの優勝。負けて、ジュビロが延長無しで勝利すれば、得失点差でジュビロの優勝。まさに大詰めを迎えている。そんなサッカーファンの純粋な興味と平行して、もうひとつ大きな話題が世間を騒がせている。横浜フリューゲルスのマリノスへの合併問題である。フリューゲルスに出資する大手ゼネコンの佐藤工業の経営陣からの撤退によって、もう一つの出資会社である全日空が単独での経営に難色を示し、マリノスの親会社、日産自動車へ働きかけての合併となった。すでに「横浜F・マリノス」という新チーム名も発表されているが、これにはフリューゲルスのサポーターはもちろんのこと、マリノスのサポーターからもブーイングが出て、選手を含めて大混乱となっているのはご承知のことだろう。
  フリューゲルスは「全日空スポーツクラブ」の経営するチームだが、そもそもは「横浜市中区スポーツ少年団」が前身の草サッカーチームである。現在存在しているどのJリーグのチームよりも地域に根付いているチームだ。だから、Jリーグの理念の中で、日本全国にチームがあることが望ましいとして懇願され、全日空にちなんで九州に移転を要請されたときも、頑として縦に首を振らなかったほどのチームである。「北海道にもチームを」と請われてハイハイと移転した「東芝」や、静岡の支部リーグからスタートしてサクセスストーリーそのままにやっと手に入れたJリーグの座を福岡で迎えた「中央防犯」とは違って、フリューゲルスは市民に愛されたというよりは市民に育てられてきたチームである。それが、全日空という居心地の良いはずの器を手に入れたとたんにこれでは、サポーターの気持ちはいかばかりだろう。「今さら、敵チームのマリノスを応援しろと言われても困る」というわかりやすい理由以外に、サポーターにはやりきれなさが残っているのだと思う。だからこそ、J2にでも地域リーグにでも落ちてもいいから、チームだけは存続させてくれと言う要求になるのだろう。
  ひるがえって、フリューゲルスとマリノスの合併は、旧態依然とした日本リーグ時代の「企業の論理」に基づくなんら進歩のない考え方であることは明白だ。Jリーグは地域に根差したスポーツ振興を理念としてスタートした。これがまさに典型的な絵に描いた餅であったとしても、「百年構想」とまで銘打って展開している一大イベントを、大企業がサポートこそすれ、足を引っ張っているようでは、サッカー人気の低迷を景気のせいばかりにもしていられないだろう。
  佐賀で活動している「サガン鳥栖」というチームがある。このチームは「鳥栖フューチャーズ」として一旦船出したものの、今回と同様にスポンサーの撤退により解散の危機に遭った。現に実態は解散してしまったのだが、市民の寄付と会員組織の会費によって、現在もこうして活動を続けている。フリューゲルスにもそんな手段があるはずなのだ。もちろん、収入の大幅な減に伴う数々の問題は出てこよう。プロ選手の数も減らさざるをえないし、年俸の高い主力選手も放出せざるをえない。そのためにどんどんチームは弱体化してしまうかもしれない。けれども、それは皮肉にもそうして「Jリーグの理念」に近いチームができ上がるのかもしれない。現実には、資金が集まらなければ強いチームには成り得ないから、2部からも落ち、地域リーグへ、支部リーグへと転落していく可能性も踏まえての決断となる。しかし、それでもライバル・チームへの吸収・合併よりはるかにましだと考えるのが、スポーツの論理であり、サポーターの胸のうちだと思うのだが。
  フリューゲルスは草サッカーから始まった市民のチームである。たとえ何十年後かに再び草サッカーチームに戻ってしまったとしても、それを見守る人がいて、そこでプレーする人がいることがまさに「百年構想」なのではなかろうか。「あの草サッカーチームの前身は、日本のトップリーグで優勝争いをしたこともあるチームなんだ」なんて、かっこいいと思えるのには、相当の年月が必要なんだろうか。

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10月3日   水素や酸素、硫酸や塩酸、さらには物質、試薬、蒸留といった、理科の教科書に普通に載っているほとんどの化学用語は、驚くことに、江戸時代のたった一人の化学者が創り出した言葉である。その人は、1837年に書かれた「舎密(せいみ)開宗」の著者、「宇田川榕菴(ようあん)」なる人物なのだが、そう言われても、おそらく予備校の私立文型クラスの日本史の授業でかろうじて目にすることがあるぐらいで、一般にはまったくと言っていいほど知られていないかもしれない。かくいう僕も、今月号の「化学」という雑誌の特集を読むまでは、縁がなかったのだが。
  彼は、いわゆる「蘭学者」なのだけれど、ほとんどオランダ語ができなかった平賀源内などとは違って、抜群に出来たオランダ語を駆使して、西洋の化学を日本に紹介することを生涯の仕事とした。今のように、語学留学などなかった時代、ましてや翻訳をしようにも専門用語や辞書もない時代に、文化背景の相違までも考慮に入れた彼の翻訳は、対象が目に見えない化学であっただけに、いかに苦労したかを想像するに難くない。いや、現在のように物質に対する概念のなかったときである。ときに、実際に実験によって記述を確認し、そして、まったく存在しない言葉を創り出していく作業は、まさに超人による離れ業と呼ぶにふさわしい。
  そんな偉人が、どうして現代に伝わっていないのだろうか。蘭学者といえば、先の平賀源内や杉田玄白が思い浮かぶが、彼らは言ってみれば素人うけした芸能人だった。「蘭学事始」はいわばオランダ語が出来ない自分をさらけ出した現代のアイドル本だったし(ただし、玄白83歳の作ではある)、オランダ語が出来ないことを気づかれまいとして模造品を売りまくる源内は、新奇な道具好きの日本人につけいる「コムロ」だった。それに比べて、榕菴の仕事と言えば玄人にしかわかってもらえない地味な商売だし、ましてや、美しい姉(物理学)とかわいらしい妹(生物学)の間に挟まれた凡庸で退屈な娘とさえ呼ばれる「化学」に携わっているのだから、無理もない。実際の理由は、この時代の蘭学者への弾圧を避けた榕菴が、いっさいのエピソードを残さず、ひとりの幕府仕えの有能な役人の道を選んだからのようだが、せめて、我々「化学」にたずさわる日本人が、彼を忘れないことで彼の業績を称えたいと思う。
  それにしても、空気のように重要なことほど人が意識するのは難しい。ぽんと、サッカーの話に飛んでしまうけれども、世界を代表するMFで、名古屋グランパスエイトで活躍するユーゴスラビア出身のストイコビッチは、来日当初審判に当たりまくって退場を繰り返し、世界の評価とは裏腹に日本では厄介者扱いされたものだった。ピクシー(妖精)の愛称の通り、彼のボールを持ったときの華麗なプレーは誰もが知るところだが、実はボールを持っていないときの彼の動きこそが、彼の真骨頂なのだ。彼の荒くれぶりは、そうした、注目されないプレーの重要さの意味を理解していない、日本人プレーヤーとの意思の疎通が出来ないことへの不満が、審判へ向けられた結果だと言われている。そしてまた、そうしたプレーを理解できるようになったとき、格段にグランパスは強くなったし、日本のサッカーのレベルは上がったのである。
  ひるがえって榕菴の業績もまた、重要であるが故に、偉大であるが故に、現代人に意識されていないのだろうか。榕菴は言う。「学問の入り口は博物学(生物学)で、物理はその方法を学ぶもの、そして化学こそが「学の堂奥(どうおう)」として物質科学の究極であり、自然界すべての物質の動きを司るものだ」と。まわりの評価に惑わされずに信念を貫く姿勢、見えないものを意識し、真理を追究する姿勢こそ科学者の仕事である。

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9月7日   黒沢監督が亡くなった。88歳だった。あまりにも有名な日本の映画監督の訃報は、瞬く間に世界中をかけ巡り、イタリアやロシアでは一斉に特別番組が放映され、知日派で知られるフランスのシラク大統領は、即刻弔電を打ったと伝えられた。また、日本映画の公開上映が事実上禁止されている韓国でも、トップニュースとして報じ、特集を組んだそうだ。
  「世界のクロサワ」と呼ばれ、彼の映画が世界中で親しまれていることはよく知られている。特に、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカス、フランシス・コッポラら自らを「黒沢の弟子」と称してはばからないアメリカの映画監督がいるほどである。また、キューバのノーベル文学賞受賞者ガルシア・マルケスも黒沢映画の大ファンで、彼の作品「族長の秋」が黒沢映画に名を連ねるべく企画が進められていたという。
  しかし、日本での彼の映画の評価はどうだったか。世界にクロサワの名が広まった後の作品「白痴」は、ドストエフスキーの大作をもとに舞台を札幌に移して撮影されたが、配給元の松竹首脳部には「暗くて長い」と不評で、4時間25分の長尺を2時間46分に縮めさせられている。「これ以上切るならフィルムを縦に切れ」と言った黒沢監督の思いが身に染みる。また、黒沢明の名を世界にとどろかせることとなった作品「羅生門」は、ベネチア映画祭のグランプリとアカデミイの外国映画最優秀賞を受賞したが、日本の批評家はこぞって「ただ東洋的なエキゾチズムに対する好奇心の結果に過ぎない」とにべもなかった。以来、黒沢映画は日本よりもむしろ外国の方で評価が高いという現象が続いている。のちに黒沢監督は、自伝「蝦蟇の油-自伝のようなもの」の中で、「日本人は何故日本という存在に自信を持たないのだろう。何故、外国の物は尊重し、日本の物は卑下するのだろう」と書いている。至言である。
  自分のことを棚に上げて言うことを許してもらえば、日本人は概して外国製品を尊ぶ傾向がある。いや、日本古来の伝統、日本的なものを毛嫌いすると言い換えた方が適当だろうか。特に最近は「国際化」が叫ばれ、何はなくとも外国のまねをするのが「国際化」の第一歩と思われている節があるが、本末転倒というものだろう。国際化に必要なグローバルスタンダードとは、相手に自分の良いところを分かってもらう努力をし、相手の良いところを自分が分かろうと努力することではなかろうか。まずは相手に自分の特徴を見せなければ、どんな人もその人を信用してはくれないだろうし、そのためには、胸を張ってどうどうと相手に誇れる何かを持たなければならない。明治初期、ちょんまげを結ったままヨーロッパに渡り、西洋を吸収しようとした人たちが、見よう見まねで西洋人の立ち居振る舞いをまねてみせたとて、果たして歓迎されただろうか。彼らは、かの地でもまた武士道にのっとり威風堂々と行動した結果、日本の近代化に必要な情報を「信頼」を担保として勝ち得たのである。
  黒沢映画が何故世界中で認められるのか。その答えこそがまさに「国際化」のキーワードなのかもしれない。30本にのぼる黒沢作品をまたゆっくりと鑑賞しようか。その映画を作った監督と同じ国に生まれた人間として。

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9月5日   8月26日から5日間降り続いた大雨によって、東日本の各地は大変な災害に見舞われてしまった。報道されているところによれば、特に栃木県の那須町や、何人もの被害者の出た福島県の白河市、西郷村、大信村では現在も思うように復旧作業が進んでいないそうだ。本当に大変な豪雨だった。なにしろこの5日間で年間平均降水量の半分から3分の2の量の雨が降ったというから、まったく異常なことこの上ない。滝のような雨が連日降り注いだことになる。
  こうした異常気象は、地球のあちこちで起こっており、中国での洪水や北朝鮮の干ばつ、北アメリカの熱波などは記憶に新しい。本当にどうなってしまったんだろう。このままでは、こうした気象こそが通常になってしまいやしないだろうか、と不安になってくる。しかし、相手はなにしろ「天気」である。人間でもお天気屋さんほど扱いの難しい人種はいないが、本家本元、「天気」ほど厄介なものはなく、おまけに誰がどう考えても太刀打ちできないところが、また恨めしいったらありゃしない。
  だけれども、どうしてここ最近になってこんなに「天気」の機嫌が悪くなってしまったのだろうか。たしかに、天明の大飢饉や黄河文明の洪水による消滅など、太古の昔から自然災害は起きているのだけれども、そうした歴史的な異常気象が起こる間隔は、現代に近づくにつれてどんどんと縮まっている。1990年代に入ってからというもの、世界中のあちこちで自然災害のニュースを聞かない年はないくらいに頻発している。いったい何が「天気」の逆鱗に触れてしまったのだろうか。
  オゾン層の破壊や二酸化炭素による地球の温暖化現象、それに伴うエルニーニョ現象など、異常気象の原因となることがらは余りに多く語り尽くされている。そして、それらが我々現代に生きる人間の環境破壊によって引き起こされていることもまた、広く言われていることである。しかし、我々はどれほど身に持って「環境破壊」について考えているのだろうか。残念ながら、世界中の自然災害に遭遇したひとたちが中心となって、それを糧として、環境保護について訴えているという話を聞いたことがないし、ましてやある災害を境としてその国の人々が立ち上がっているという話も聞かない。もちろん、日本においても・・・。
  今回被害の大きかった那須町、白河市、西郷村、大信村に共通することは、東北新幹線が通っている場所であることだ。奥羽山脈に遮られた雨雲は、新幹線によってぽっかりと空いた一本の筋をよりどころとして、そこに居続けたのに違いない。現代文明の恩恵を浴びている身として、責任のなすりつけをするつもりはないが、新幹線が通っていなかったら、こんな大惨事にはならなかったのかもしれない。言葉を変えれば、我々科学者は、そうした自然の「機嫌」を感じとるすべを広く世間に伝えていくことも、しっかりと使命として肝に銘じなければならない。

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8月23日   川上哲治、沢村栄治。それからもう一人、往年の野球通の間で、誰もが知る戦前の甲子園を沸かせた偉大な選手と並び賞される一人のピッチャーがいる。その人の名は「嶋清一」。昭和14年の第25回大会で優勝した和歌山・海草中のエースは、大会を通して1点も奪われなかったばかりか、準決勝、決勝とノーヒットノーランをしてみせた。すなわち、80回を数える夏の甲子園で只一人の2度ノーヒットノーランを達成したピッチャーである。ちなみに、このとき準決勝で敗れた静岡の島田商は、翌年決勝で再び海草中と対戦したが惜敗し、海草中は大会2連覇を成し遂げている。それから59年。決勝戦で相手チームを無安打に抑えるという偉業を、この嶋投手以外にやってのけたピッチャーがこの夏の甲子園に現れた。横浜高校のエース、「松坂大輔」。
  夏の甲子園大会でノーヒットノーランを達成したピッチャーを思いつくままに挙げてみても、王貞治(ダイエー監督)、工藤公康(ダイエー)、新谷博(西武)、芝草宇宙(日本ハム)といずれ劣らぬプロ野球の大選手となっている。評論家やプロのスカウトの間では、松坂は既に完成されたピッチャーという評価に落ち着いているらしい。いずれプロの道に進み、さらに大きく花開くことは間違いないだろうが、早くその姿を見てみたい。松坂頑張れ。
  松坂の所属する横浜高校は、昨秋のチーム結成以来、公式戦を41回戦って何と無敗。その間に春の選抜と夏の選手権が含まれていることはいうまでもない。まさに史上最強のチームであると思う。決勝戦での松坂のノーヒットノーラン達成の要素に、守備の貢献を忘れるわけにはいかないが、まさに再三再四、堅実な守りによって大記録のお膳立てをしていた。その守備一つをみても、かなり鍛え上げられていることは容易に想像できるが、怪物「松坂」を直接支えているキャッチャーの苦労も並々ならなかったようだ。まず、高校生にして150km/hを超える球を投げるピッチャーに、安心して思う存分投げてもらうためには、当然のことだがその球を確実に捕球出来なければならない。150km/hを超える球を打たなければならない高校生も気の毒だが、その球を毎度毎度受け取る高校生はさらに気の毒である。130km/hの球威があれば速い球を投げるピッチャーと言われる高校野球で、まさに破格の150km/h。横浜高校の捕手小山は打撃マシーンをバッテリー間(18.44m)より3m以上も近い位置に設置して打者にバントの構えをさせ、球がベース上を通過する直前にバットを引かせて捕球するという過酷な練習をしてきたそうだ。東京出身の松坂が横浜高校に入学したのは、シニア時代に同じく日本代表となったこのキャッチャー小山が、地元横浜に進学することを聞いて、日本一になるために絶対に必要な女房役だからと越境入学を決めたという。その夢を実現するだけの努力もさることながら、自分の目標に向かって真摯に取り組むことの出来る行動力。光り輝く人の周りには、必ず光り輝かせる人もいるのだ。
  甲子園や地方大会で、はかなくも負けてしまったどのチームも、負けたのはたったの1回。そして、横浜高校は唯一1度も負けることのなかったチームである。0と1はたったの1つ違いであるけれど、何倍の差があるのかはその歓びを知った選手にしか分からないのかもしれない。とにもかくにも、今年の夏の甲子園は本当におもしろかった。久しぶりに味わった高校野球の醍醐味が、横浜高校の優勝によってさらに色づけされた。たまには高校生からエネルギーをもらうのもいいもんだ。

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8月22日   8月半ば、新聞の3面記事の片隅でひとりのプロ棋士の訃報がひっそりと掲載されていた。村山聖、享年29。関西の怪童と呼ばれ、将棋界に留まらず今や巷に知られることとなった巨人「羽生善治」打倒の急先鋒だった彼は、将棋界最高峰のA級リーグ在籍のまま、冥界へと旅立った。進行性のぼうこうガンだったという。
  彼は小さい頃から体が弱く、病気がちだったようでプロ棋士となってからもたびたび急病のための不戦敗を余儀なくされていた。プロの将棋指しといえば、激しく体を動かすわけでもなく、1カ月に2、3度の対局(将棋の試合のこと)をするだけの頭脳職と一般には映っていることだろう。だから、病弱な彼が天職として将棋の世界を選んだことに、なんの疑問も抱かないのではなかろうか。しかし、これが大変な重労働なのだ。対局が午前9時に始まると、夜中まで勝負の行方が分からないのが日常茶飯事だし、順位戦(A級からC2級までのまさに自分のランクを決める将棋界で最も重要な対局。このランクによってその人の対局料が決まっている)ともなると終局は午前様ということもままある。30cm角ほどの将棋盤を見つめ続け、生活を懸け、名誉を懸け、真剣勝負で終夜頭を回転し続ける姿を想像して欲しい。僕の大学4年間の将棋部時代とプロの対局を比べるのもおこがましいが、アマチュアの対局を1日通しただけでも大変な疲労を伴うのだから、プロの対局たるやその疲労度は想像に難くない。以前羽生がテレビのインタビューに答えていたが、1日の対局でおよそ3kgはやせるそうだ。そんな世界に身をおき、頂点である「名人」の一歩手前まで登りつめた彼を支えたものが、将棋の才能、素質であったことに疑う余地もないが、長くトップでいることが実に至難な過酷な世界にあえてその身をおき続け、そして精進を続けたその精神力たるや、「すごい」という言葉しか浮かんでこない。
  「終盤は村山に聞け」とプロ棋士の間でささやかれていたという。勝負が決まるか決まらないかという、最終盤。我々アマチュアとプロとの決定的な違いは、実に勝負が接近しているということ。一手でも先に間違えた方が負けという場面が、プロの対局には本当に多い。そんな勝負において正解手を探し出す作業は、たとえ将棋のプロといえども時間を要するものだが、彼は盤上を一瞥するや正解を言い当てたそうだ。しまいにはプロの間で何人かで集まって喧々諤々と検討するよりも、彼を探し出してきて彼に将棋盤を見せて意見を聞き出すことが一番正確だといううわさが広まっていた。しかし、それほどの逸材の姿を、弱冠29歳というまだまだこれからという若者の姿を、我々は永遠に見ることが出来なくなってしまった。
  世間一般の将棋に興味のない人たちには、年老いた芸能人が死んで行くこととなんら変わらない出来事なのかもしれない。新聞を含めたマスコミにこの話題が上ることもないようだ。しかし、志半ばにして夭逝してしまった「村山聖」というプロ棋士が存在したということを、たくさんの人に知ってもらいたくて、いてもたってもたまらずキーをたたいた。きっと彼の生きざまが多くの人に何かを伝えていることを信じて。

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8月6日   大学は今、夏休み期間中。ふだんは不夜城と化す研究室も、今はちょっとばかりペースダウンだ。僕はと言えば学生最後の年(の予定)、博士課程の3年ということで、学位論文の仕上げに追われて、休み気分も暇もありそうにない。とほほ。せめてもの息抜きが、このエッセイかな。
  これでも結構、学部時代は長い休みにいろいろな体験をした。その中の一つを今回は紹介することにしよう。クイズ好きはちょっと知られたところだけれど、「旅行」が効果的なクイズ対策となることは知る人ぞ知る。まさに百聞は一見に如かず。そんなわけで、なるべくその土地の滞在時間を伸ばすべく、「全行程鈍行列車での日本縦断旅行」なるものを長期の休みごとに3年ほどかけてやったことがある。いやあ、自分で書いていてもなつかしさがこみ上げてくる。電車を単なる交通手段としか思っていない人には、いわずもがな禅修行にしか聞こえないだろうけれど、その土地の言葉を聞き、その地域の雰囲気を知るにはもってこいの手段だと今でも思っている。北海道は稚内、根室を皮切りに長崎や鹿児島まで。延べ日数にすると20日ほどかかっているだろうか。
  大きな荷物を持って、よたよたと駅の階段をゆっくりと上っているお年寄りを、どこでも目にすることが出来る。そんな人にするすると忍び寄って・・・といってスリの手招きをしているわけではない。近寄って「重いでしょう、お手伝いしますよ」と一声かけると、10人中10人がにっこりと「そうかい、どうもありがとう」と快く(!?)荷物を渡してくれる。ん〜、なんて不用心な国なんだ。と、思わないでもないが、日本人に人を疑うなんていうせちがらい風習はなかったのだ、と良い気分になったりもするシーンだ。で、後は一緒に電車に乗って世間話に花を咲かせる。その土地のことは、なんといってもお年寄りに聞くのが一番。方言でもってたっぷりとそこに浸ることが出来る。たまに、言われたことの何割も分からないこともあるけれど。
  実はこの旅行、太平洋側を往復したので、日本海側の山陰や北陸を旅したことがいまだない。是非ともまたゆったりと見て歩きたいところだが、いかんせん競争の激しいこの世界にどっぷりとつかってしまった今となっては、果たしてそんな悠長なことが出来るのかどうか。試してみたいなあ。でも、そんなことを言っていると「現実逃避している場合じゃないよ」なんて声が・・・。もうしばらくは、目の前に迫った山を越えるべく、あくせくすることにしよう。いつの日かどこぞで「重いでしょう、お手伝いしますよ」と、にっこりと話しかけている人がいたら思い出してください。決して不審人物ではありません。それが僕ですのでどうぞよろしく。(注意!!!・決して悪用なきこと)

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6月15日   人それぞれ好きな物書きの一人や二人いるものだと思うが、僕が注目してやまないのは「司馬遼太郎」と「立花隆」両氏である。もちろん彼ら以外にも、妹尾河童や倉本聡、三浦綾子、高橋延清、津本陽、藤原正彦などなど、どんな共通点があるのかないのか自分でも分からないのだけれど、気になる書き手の方々はいる。しかしなんと言っても、新しい本(それまで知らなかった本を含めて)を本屋で見つけたときに読まずにはいられなくなってしまうのは、前出の二氏である。残念ながら、ご存じの通り司馬さんの新作はもう読めなくなってしまったけれど、その偉大さを物語るように、亡くなられてからも次々に「未公開講演集」やら「司馬遼太郎の・・・」なる本が出版され、ファンとしては喜ばしい限りなのだが、それもあと何年続くのかを思えば、寂しさが急にこみ上げてくる。
  司馬作品の何が良いかと問われれば、即座にこう答えるだろう。「遠く学校の教科書で習ったような机上の出来事を、すぐ隣町で昨日起こった事件のように身近に感じさせてくれるその筆力」と。その根底に流れているのは、いわずもがな、徹底した人物研究と莫大な知識に支えられた司馬観と呼ばれる歴史観である。そこには、いわゆる通説や学説に左右されない、庶民的なそしてとても筋の通った司馬眼がちりばめられている。しかしそれは決して押しつけがましいものではなく、さりげなく、さらにはまるで閉店間際の魚屋さんがおまけにもう一尾のサンマをつけてくれるように、純粋に得した気分に浸ってしまうように、そっと教えてくれるのである。司馬さんの真骨頂が垣間見れるのは、だれかれとの対談ではなかろうか。ひたすら感服するしかないほどの知識量を、嫌みなく披瀝してくれる。こんなエピソードがある。生涯東京で暮らすことのなかった司馬さんが住んだ大阪で、歴史を伝える稀覯本はいっさい古本屋にはなかったのだそうだ。なぜならすべて司馬さんが買い占めてしまっていたからである。そのアンテナの鋭さと、古書店主からの絶対の信頼感なくしてはなかなかこうはいくまい。
  一方の立花隆氏の作品は、言わずと知れた壮大な取材に裏打ちされた徹底した真実の追及にその魅力がある。そしてさらに圧倒されるのは、彼の守備範囲がある特定の分野に限定されることなく、政治の世界から科学の世界、はたまた宇宙やインターネットなど、今現在注目されているものに、ことごとく興味を持たれ、そしてとことん追いかけていることにである。立花隆の名を世間に認知させたものは、かの「田中角栄研究」なる文藝春秋に掲載された論文であり、田中角栄の失脚の直接的な引き金になったことで知られているものである。そんなセンセーショナルなデビューを飾りながら、そうした政治の世界に留まらずに、自分の興味の趣くままに、しかしそれがまた世間の興味と奇妙に一致しながら現在まで活躍を続けている。もちろん、それぞれの専門家と知識の絶対量を比べたならば、たとえ立花隆と言えども決して彼らすべてを凌駕するものではないだろう。そして我々も、どんな分野でも第一人者となれるほどの単なる知識の蓄積を彼に期待しているのでは決してない。彼に期待し、そして見事なまでに応えてくれていることは、そうした一見別の世界のことのように思える事柄を横につないでしまう俯瞰力である。これからも、目から鱗が落ちるような着目に期待している。

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5月26日   2場所連続優勝を決めた、大関若乃花の横綱昇進がほぼ確定した。弟、貴乃花に遅れること3年半で、第66代の横綱となる。史上初の兄弟横綱と、世間は大騒ぎだが、そんな余計なフレーズを抜きにしても、いやはや我がことのようにうれしいのはなぜだろう。若乃花は何を隠そう、僕と同い年で、同じ長男。おまけに何かにつけて弟の方が分がいい。長男は、ホント大変なのだ。そんな、勝手な親近感からだろうか。とにもかくにも、横綱昇進おめでとう。
  現代の大相撲の世界は、平均体重161kgという大型力士時代。若乃花の131kgという体重は、ちょうど僕の2倍だから、世間一般の人からみれば十分すぎるほどに重いのだけれど、227kgの曙や215kgの武蔵丸と正面からぶつからなければならないのだから、とても十分とは言い難い。そんな彼が、10年前に突然明大中野高校を中退し、弟とともに父親と同じ道を歩み始めてついにつかんだ最高位。内無双やかわず掛け、逆とったり、網打ちなどちょうど30にのぼる決まり手を駆使するその業師ぶりや、異常なまでのけいこ熱心さなど、評論家の方々が様々に強さの秘訣を侃々諤々に語っているので、僕の出る幕はないのだが、一つだけ言わせてもらおう。
  若乃花の強さはその徹底した勝負師ぶりにあるのではなかろうか。弟貴乃花の愛想の悪さとは打って変わって、若乃花の愛敬の良さ。そんな笑顔の似合う若関に魅せられるファンも多いのだろうが、そんな普段の応対からは伺えない土俵上の勝負に対する計算高さは、まさに横綱にふさわしく、全力士中ぴか一だと思う。なにしろ、あれほどの愛想を振りまいていても、取り組みのことになると一様に「秘密です」とくる。挙げ句の果てに、理想の力士を聞かれても「3人いるが名前は言えない」のだそうだ。そこまで、と思ってしまうのだが、小兵力士の命綱はやはり相手に対応した取り口だから、ちょっとのことで癖をつかまれてしまうと、命取りになるということなのだろう。「型がない」という批判も若乃花にしてみれば好都合なのかもしれない。
  いずれにしても、横綱になること、そのことだけが使命ではないはずだ。横綱になるおかげで力士生命を短くしてしまうのではないかという声がないでもないが、そんな常識をも覆してしまう活躍を期待している。勝負師とは、先が見える人のことを言うのだ。徹底した勝負師ぶりに注目しよう。

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5月9日   イチローの3年前の沖縄でのオープン戦初打席、横浜の佐々木と対峙しショートフライに倒れた。昨年の北谷での中日戦、オープン戦の初打席はセンターへの犠牲フライ。そして今年の浦添での日ハム戦は、バックスクリーンオーバーの本塁打。その年の初打席に立つまでの自主トレの仕上がり具合を、体の成長に合わせてきっちりと調整してくる。なんともイチローの人となりが、そしてすごさが垣間見れる逸話ではある。
  いまや日本の顔になりつつある男、中田英寿。弱冠21歳のサッカー日本代表の司令塔である。彼が最初に「日の丸」のついたユニフォームを着たのは韮崎高校2年、16歳のとき。そして、着せたのは当時U-16代表の監督だった、長崎・国見高校の小嶺忠敏監督である。今の活躍からすると、当時からものすごかったのだろうと想像しがちだが、小嶺監督いわく「正直なところ、ずば抜けたものは何ももっとらんかった。」サッカーファンなら記憶に新しいと思うが、5年前のU-16代表の目玉はなんといっても財前宣之(現・川崎)だった。いわゆるピカイチ。ゆえに、当時のU-16代表の30人のうち現在フル代表に名を連ねているのは中田ひとりである。そんな中田の何が光ったのか。「彼が出すパスは、最近キラーパス、ってそんな風に言われてますよね。でも、わたしには分かるんです。あんないいパスは、山のように失敗をしていないと出せないはずだもの。最初からあんなところに通せない。やっぱり何本も何本も失敗して、それで、ここでカーブするから、とか、浮いたボールを出せばいい、とかそういうことを学ぶんだな。そういうトライをする中から、アイデアと創造力が生まれるんじゃないですか」(ナンバー・プラス、文藝春秋)。この積極性こそが中田の才能なのだろう。
  もう一つサッカーの話題。ブラジルの誇るストライカー、ロナウドも中田と同じ21歳。彼の活躍は今や世界中のサッカーファンを魅了し、2年連続してFIFAの年間MVPに輝いている。その彼がブラジルのプロサッカーの門をたたいたのは15歳の時だった。しかし、驚くなかれ、彼は最初に受けたプロテストでなんと不合格を言い渡されているのである。そして次の年、16歳にして彼はプロ契約を結び、翌年にはブラジル代表に名を連ねている。ブラジルに500以上存在するプロサッカーのすごさを見る思いではあるが、その挫折こそが、今の彼の活躍を支えているとしたら・・・。
  自然の真理を究めるために日夜実験に明け暮れている研究者は、一般の人たちから、ともすると才能の塊の頭脳集団と見られがちである。そして、この世界に身をおく側の人間もまた、自分が属している世界を才能が左右する世界と思い、自分にその才がないとみては思い悩みがちである。しかし、上の例を出すまでもなく、才能とは向上心であり、積極性であり、挫折をバネにすることの出来る精神力である。その道のプロになり得ることが出来るかどうかは、技術的な能力を基準にしては決してはかることはできない。いかにその道に惚れ込み、のめり込み、その道のために努力することが出来るのか。結果は後からついてくる。

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4月29日   人は一人では生きてはいけない。少なくとも、現代に生きるならば。誰にも頼らず、自分一人の力だけで生きていこうとする人たちはたくさんいるが、それはあくまでも、その人が定義した「一人で生きる」ことの範疇におさまる暮らしをしているにすぎない。あなたが食べている物は、あなたが着ている服は、あなたが住んでいる家は、生きるために必要な何もかもが、あなたではない他人が提供しているものである。現代という時代に生きる我々は、縄文時代のように狩猟をして日々を暮らし、そしてそれに満足できる動物ではもはやなくなっている。我々が誰の力も借りずに「一人で生きる」ことは不可能なのだ。一人の人の一生の間に、直接、間接を問わず接する人の数たるや、何万人という人数にのぼることを想像するのに難くない。
  しかし、明らかに自分が生きていくために必要な、その何万人という数の人々もまた、まったく関わることのない、地球に暮らす50億人という人同様に、一人の人間としての自分を認識してくれることはない。そう考えると、自分と直接関わってきた方々がいかに貴重な存在であるかを、最近思うようになった。27年という、僕の一生の何分の一かを過ぎた時点で、おそらくすでに何百人という人にお世話になっていることだろう。そして、今こうして大学の研究室で画面に向かってキーボードを打っている自分が居るのは、間違いなくこれらの人々が僕の周りに居てくれたからに他ならない。
  人の一生は、いうまでもなく人の数だけ存在し、生まれてから死ぬまで、その人が歩いてきた人生という道もまた人の数だけ存在する。誰かが作った大きな道に沿って楽して歩こうとする人もいれば、常に誰も足を踏み入れたことのない場所に道を作ろうとする人もいる。しかし、人の数だけ存在する無数の道とまったく交差することなく道を作っていくのは不可能だ。そんな交差点が人と人との出合いであり別れである。まったく違う方向から伸びた道が直角に交差することもあれば、平行して走る道もある。太い道を横切ろうとすれば時間もかかるだろう。舗装されていない、泥道を渡ることにためらえば、少しでも渡りやすい部分を探して、しばらく平行して歩くこともあるだろう。そうして道と道とがぶつかって、誰かに出会うということは、それだけ自分が前に向かって歩いていることの証しでもあると思う。進まなければ他の道と交差することはないのだから。たくさんの人と出会う意義は、自分が前に進んでいることを認識することにある。
  人が一人では生きてはいけないのは、自分が歩いていることを、前に向かって進んでいることを、具体的に確認するすべがないと不安で生きていけないからなのではなかろうか。だから、出会ったすべての人に、感謝したい。

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4月11日   今年前半のトップニュースとなった長野オリンピックは、予想をはるかに上回る盛り上がりを見せたが、その盛り上げ役の最右翼は何と言ってもスキーの「ジャンプ」だろう。はからずも主役となった原田は今や世界中の人々の記憶にその名前を刻んでいるそうだ。もちろん、金メダル2つと銀メダル1つを獲得し、堂々とオリンピックのジャンプの歴史にその名前を残した船木もすごかったし、日本のジャンプ競技の層の厚さそのものが圧巻だった。しかし、オリンピックでの活躍以上にジャンプ競技人の栄誉と考えられているものがあるそうだ。4カ月にわたるワールドカップシーズンの個人総合優勝。いまだ日本人でこの栄冠に輝いた選手はいない。そして「いなかった」と過去形になるかと思われた最終戦で、ドラマがあった。
  ぴたりと総合2位につける船木が2本目を飛び終わった時点でこの日2位。残りは2人。トップを争うライバルは、地元開催で大観衆の声援があだになったのか失敗ジャンプを繰り返し、5位に甘んじていた。総合得点ではこの時点で船木はライバルを逆転していた。つまりこのまま2位が確保されれば、日本人初の個人総合優勝に輝くのだ。そして残る2人は・・・1本目、ラージヒル世界最高記録の147.5メートルというものすごい飛距離をマークした日本人、葛西紀明と、同じく今期最高の飛距離を出した日本人、斎藤浩哉。どの国のコーチ、選手も船木の総合優勝を疑わなかったという。斎藤も葛西も2本目のジャンプは遠慮するに違いない、と。唯一船木のライバルの総合優勝を期待する地元ファンだけは、望みをつなぐ2人の日本人に大声援を送っていた。
  そして2人の日本人は・・・見事に最高のジャンプで会場の大声援に応えた。船木の夢は、層の厚さを誇る我が日本の同僚によって打ち砕かれた。結局最終戦は、葛西が優勝し、2位にはそのまま斎藤が入り、船木は4位に終わった。そして船木は史上最小差の19点に泣いて総合2位という結果だった。
  「誰でもわざとなんか負けませんよ。もしかしたら皆、船木に勝たせたくなかったのかも。総合優勝を最初に飾るのは俺だってね。」と原田が語っていた。船木は常々「日本人で最初ということに意味はない」と豪語している。しかし、原田が最終戦の2人の日本人の心理を代弁しているとすれば、船木は「日本人で最初」という栄冠によってその夢を砕かれたのかもしれない。それにしても、ジャンプという個人競技の神髄を見るドラマだった。でもそうやって、また一段と高い領域へ足を踏み入れることが出来るようになるのだろう。研究者の世界にも通じるドラマであってほしいと願ってやまない。

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3月23日   スポーツ振興投票法案、いわゆるサッカーくじ法案が3月中にも成立する見通しが報じられている。成立後は、2年の準備期間を経て2000年から販売が開始されるそうだ。小学生のときからサッカーに魅せられ続けている者としては、ギャンブルの対象として、Jリーグの試合がお茶の間の話題に上ることに抵抗を感じないでもない。しかし、理由はどうあれ、まずは衰退の一途をたどるサッカー人気に歯止めをかけ、すばらしいプレーを見せてくれるはずの選手のいろいろな意味での環境を整えるという効果は、確かにあるかなと思っている。そういう意味においては、この法案の成立を何はともあれサッカーファンとしては歓迎したい。
  ところで、そうした純粋なサッカーファンの好意的な思惑とは別に、この法案の成立に大きな期待を寄せる影が見え隠れしないでもない。文部省である。農水省は中央競馬、通産省は競輪、運輸省は競艇というように各省はそれぞれの公営ギャンブルを管轄し、独自財源を確保している。そうした独自財源を求めるのが、長年の文部省の悲願だったのだ。そして、くじの実施主体は文部大臣直轄の特殊法人「日本体育・学校健康センター」が行うことになっている。もっとも、法案提出直前まで、文部省は同センターの下に新たな財団法人を設ける計画だったらしいが、スポーツ議員連盟にクギを刺されて(サッカーくじ法案はスポ議連の議員立法)もくろみは一つ外れることとなった。それでも、収益金の配分などで、文部省が強い権限を握っていることに変わりはない。
  収益金の配分というのは、売り上げの23%を競技団体と地方自治体で分けようというもの。どこにどれだけのお金を配分するのかを決定するのが、文部省なのである。そしてその文部省は、サッカーくじの導入によって、年間2000億円の売り上げを見込んでいる。その売り上げの23%、約460億円をこれらの団体で分けることになる。ところで、現在の日本の今年度の文部省体育局のスポーツ関連予算は約180億円だから、この援助はかなりの額のようにも思えるが、サッカーくじが定着したイタリアの、国のスポーツ関連予算が約1000億円(サッカーくじの年間売上額は約3000億円)だという現実を知れば、決して余裕のある金額ではないことは明らかだし、現在の日本のお粗末さも際立ってこよう。ちなみに1923年以来75年の伝統を誇るイギリスのサッカーくじの年間売上総額は約1700億円。かたや初年度に2000億円。いきなり大先輩を上回る数字をはじき出すあたりに、そもそもの心配の種があるのだが。

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3月17日   またまたパラリンピックの話題。ヨーロッパ以外で初めて開かれた長野冬季パラリンピックは、先週の土曜日、盛大なるうちに閉会式を迎えた。10日間で32カ国約1200人の選手や役員が参加した史上最大規模の大会は、まず成功裡に終了したと言ってよいだろう。この大会を終えてまず驚くことは、日本人選手の獲得したメダルの数。その数は、金メダル12個を含め何と41個にのぼるそうだ。このメダル数は参加国中堂々の2位。すごい。心に残る大きな感動と興奮をありがとう。
  パラリンピック---もうひとつ(パラレル)のオリンピックのテレビから伝わる感動が、もう一方のオリンピックのそれとなんら変わるものではないことは、前売券を完売し15万人に及ぶ観客総数を記録したことでも明らかだ。パラリンピックは、決してオリンピックの付録などではなく、れっきとした各国代表による世界一を決めるスポーツの祭典であることを、あらためて知らされたような気がする。国際パラリンピック委員会は、2000年のシドニーオリンピックから障害者スポーツをオリンピックの正式種目として採用するように次の理事会で提案すると発表した。この案は十分に検討に値することだと思う。柔道などで行われている体重別競技と同様、健常者と障害者別に競技があることはそんなにおかしなことではあるまい。
  我々が身をおく科学界において、オリンピックのようにさまざまな分野の研究者が一堂に会してその成果を競い合うことはない。そもそもオリンピックと比べること自体がナンセンスであるとおしかりを受けるかもしれないが、オリンピックを目標に日々努力するスポーツ選手の姿は、自然の真理を追い求めて日々研究に没頭する我々の姿と重ならなくもない。そして我々の世界は、スポーツほどの健常者と障害者の垣根の存在しない世界でもある。パラリンピックの成功によってエネルギーを注入された障害者の方もいるに違いない。僕もいっぱいエネルギーをもらって、負けないようにしよう。一緒に頑張ろう。

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3月10日   パラリンピック長野大会が連日熱い。日本人選手の驚異的なメダルラッシュ。予想をはるかに超える選手個々人のがんばりと、それを温かく見守り、そしてダフ屋が出現するほど盛り上がる観客。マスコミ各社が、これほどの盛り上がりをおそらくは予想しなかったであろうことは、まったくと言っていいほど各競技のライブ中継を企画していないことからも推測できる。もしくは、障害者の競技ゆえの配慮がはたらいたのかもしれないが、ニュースのハイライトでようやく見ることのできるパラリンピックの選手の姿は、そんな余計なことを考える暇を与えぬほど、魅力的な表情、真剣なまなざしを伝えている。人が一つの目標に向かって一所懸命に突き進んで行く姿は、人種を越え、障害の有る無しを越え、見る人に勇気をそして希望を与えるものであることが再確認されたと思う。
  ひるがえって、我々研究者(の卵)のがんばり具合は、人様の目に触れることなく、その結果だけが評価の対象とされる。金メダルを目指しながら、惜しくも夢破れた選手の姿ですら十分に人々の心を魅了することができるのに対して、この科学界は、金メダルを手にした者のみがその栄冠を享受することができ、銀メダル以下の存在し得ない世界。スポーツ選手がうらやましくもないが、そんなたった一つだけの栄光のイスを目指して、年齢も経験も関係なく、そして国内選考を経ることなくダイレクトに世界中の強豪と勝負のできるこの研究者の世界も、悪くない。途中のがんばりが、おおいに評価されるに越したことはないが。

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最終更新日:1999年 4月 30日