1999年
 5月27日
  成田の天候の影響(それはすごい強風、よく飛んだものだ)による出発の遅れ(2時間)により、なんと中継地のミネアポリスでの入国審査を終えてから飛行機を乗り換え、再び飛び立つまでの時間が30分ほどだった。なにやら前途多難な予感。しかし、ボストンへは無事予定時刻(午後6時30分)に到着。迎えに来てくれていた同じ研究室のドイツ人のポスドクとも難なく遭遇し、これから住居が決まる間泊めてもらう家へ直行。ロシア、インド、アイルランド出身のいずれもMITの大学院生が迎えてくれた。いよいよボストンでの生活がスタート。
 

1999年
 5月28日
  早速大学へ行き、ボスに挨拶したのち、スタッフとしての登録手続きもろもろ。
  1カ月前にきたばかりという同じ研究室のポスドクの奥さん(ドイツ人)と一緒に、Social Security Number(このナンバーがないとアメリカでは何事も事務処理が出来ない)の取得と銀行口座の開設のための手続きで、地下鉄で役所まわり。
  夕方7時すぎから(8時30分まで明るいので夕方という表現で)構内のバーでビールで歓迎された。つまみいっさいなしのビールだけで4時間半。さすが外国人だ。すでに時計は11時半を過ぎてようやくお開き。ボストン実質1日目にしてはやくもご前様の帰宅となった。
 

1999年
 5月29日
  phone cardを購入。日本のテレホンカードのようなものだが、カードそのものは単なるプラスチックのカードで、銀テープに隠されてナンバーが印刷されている。公衆電話(自宅の電話でもよい)から電話をかけるときに、まずそのカードを発行している電話会社に電話して(無料)カードのナンバーを押すと、残りの料金が言い渡され、さらにかけたい電話番号を押すと、そこへ電話するにはいくらかかるから何分間話が出来る、とまたまた言い渡されて相手につながる、というもの。カードは20$で購入するが、市内通話なら10セント、市外通話(日本も含む)でも22セントが通話料金なので、結構使える。
 

1999年
 6月1日
  夕方午後7時から研究室のミーティング。ついに始まった、という感覚に浸って・・・いる場合ではないのだ。まさに英語のシャワーを浴びている感じ。
 

1999年
 6月3日
  ボストンに来てから8日目にしてようやくアパートの契約完了。ブルックライン(Brookline)市というボストンのとなりの市で、大学のあるケンブリッジ(Cambridge)市とはボストンを挟んでいるので、subwayを使って(しかも1回乗り換えが入る)所要時間40分と、ちと遠いのが難点。ケネディー元大統領の生まれ育った街として知られている。アパートはstudioと呼ばれる日本風に言えば1Kという形態。今週の土曜日、5日に入居することに。
 

1999年
 6月4日
  MITの卒業式。キリアン・コートという正面広場は1週間前からその準備が進められていたが、いざ卒業式を目の当たりにしてみると、卒業生の全員が黒いMITガウンと角帽を身にまとい一同に介しているシーンは、これがなかなか感動ものだった。しかし、とかく形式を嫌うと思われるアメリカ人だが、どうして大学の卒業式はこれだけビシッと形式にのっとって行われるのか、ちょっと不思議に思ったりした。
 

1999年
 6月5日
  アパートに入居。そして、最初のトラブル発生。なんと電話がつながらない。仕方なく電話局に電話して事情を説明することに。電話番号を伝えると・・・お前は誰だ、そんな人は登録されていないぞ、と怒られた。そんなことを言われても・・・なんとか食い下がった結果(不自由な英語で食い下がっている様子は、あまり人に見られたくない)、なんとなんと、言い渡された電話番号が違っていたことが判明。しかし、もう一つ重大な事実が。いずれにしても電話がつながらないことは解決していないのだ。結局、また要領を得ない会話の応酬があったのち(もちろんこちらの責任です)、月曜日に電話線を調べるためにアパートに技術屋が行くから、ということになった。何で、今日じゃないの、と思いつつもすでにエネルギーを使い果たしてしまっていた。
 

1999年
 6月7日
  無事、電話が開通。なんでもアパートのケーブルがいかれていたらしい。おかげで修理に1時間もかかってしまって、部屋に来てくれた電話局の技術屋さんと一緒に大喜び。それにしても、この部屋は一体いつから使われていないんだろう。
 

1999年
 6月8日
  またまた電話絡みのトラブルが・・・。アメリカの電話は、市内通話をするための電話会社と市外通話(国際電話を含む)をするための電話会社が別々になっている。昨日ようやく開通した電話は市内通話のもので、市外通話をかけようとすると「あなたの電話番号は登録されていません」というメッセージが聞こえてくる。問い合わせてみると、案の定間違っていた方の電話が登録されたままであった。早速、登録しなおした。しかし、つながるまでには2、3日かかるらしい。
 

1999年
 6月9日
  「Scooper Bowl」というアイスクリーム食べ放題イベントが、ボストン市役所前の広場に大きなテントが張られた中で行われた。年に1度3日間だけボストンで開催されるらしいが、1万人くらいの人が来るというかなり盛大なもの。このイベント、5ドルを払った人はそのテント内の各アイスクリームメーカーのブースで出されているアイスクリームが食べ放題になるのだが、うれしい限りの催しに早速遭遇するとは。どのブースでもカップで出してくれて、食べたカップをどんどん積み重ねていくと・・・おもわず11カップ食べてラボメートに讃えられてしまった(もしかしたら、あきれられたのかもしれない)。
 

1999年
 6月10日
  大学の留学生オリエンテーションが行われて、いろいろと注意やら書類の提出やらが行われた。みんながアメリカ以外の国から来ている外国人なのだから、さぞやゆっくりとていねいにアドバイスをくれるに違いないと思っていたのもつかのま、たっぷり2時間ぺらぺらと休みなく膨大な情報を一方的に伝えられてしまった。はあ〜。その後、MITのIDカードを受け取って、やっとこの大学の一員になった気分を味わって一段落。しかしこのカード、大学内のすべてのビルディングに入るための磁気カードになっているのだが、なぜか僕の化学系のビルだけは機械が認識してくれない。はあ〜。不思議なことがつづくものだ・・・。ところで、このIDカードはMITで働く本人だけでなくその配偶者にも渡されるので、奥さんや旦那さんも自由に構内に出入りできるようになっている。なんでも、利用できるものを共有できるようにして家族みんながハッピーにならないと、本人の仕事にも影響があるから、という理由かららしい。ま、僕には関係ないのだが。
 

1999年
 6月11日
  市外通話が使えるようになった。これで、電話として普通に機能するようになった。物理的には。
 

1999年
 6月12日
  アパートからインターネットに接続するために、現地のプロバイダーと契約した。1カ月固定料金で接続時間制限なしの契約。電話の市内通話の料金が1カ月の月極めなので、インターネットに接続しっぱなしでも一定料金というありがたいもの。これで日本の情報も集められる。
 

1999年
 6月14日
  卒業式以後、9月の始業まで大学は夏休み期間で、比較的閑散としている。そんな中、夏休み中の3カ月間を利用して、化学系では研究室対抗のバレーボール大会が行われている。バレーコートは、東北大農学部のバレーコートを彷彿とさせる「砂」コート。我が研究室は元もとの人数が少ないので、メンバー総動員態勢で大会にのぞんでいる。で、初参加の本日はめでたく勝利。8月までつづく。
 

1999年
 6月17日
  日本のシティバンクの口座預金からこちらのBankBostonの口座へ海外送金を申請した。こちらの家賃やら電話料金やらケーブルテレビの料金やらは、すべて月末に小切手を郵送して支払う仕組み。そういうわけで、地元の銀行に"Checking account"と呼ばれる小切手口座を持っていないと、支払いが出来ないことになっている。というわけで、この口座へ資金の移動。しかし、海外送金手数料が4000円もするというのも・・・。
 

1999年
 6月18日
  メールアドレスが決まった(yabet@mit.edu)。しかし、イリノイ大学で開発されたパスワード認識システムを利用している特殊な環境のため、専用のソフトでないとメールが見れないので、少々不便。おまけに、一応日本語が使えるのだが、送る相手によって文字化けすることも判明。アメリカでは日本語はやっぱりかなりマイナーな言語ということを痛感。
 

1999年
 6月19日
  毎週金曜日と土曜日に、MIT構内で映画を見ることが出来る。料金は2ドル50セント。内容は10年前のものから2年ほど前のものまで、結構楽しめる。で、今日は初鑑賞。劇場(教室?)が一体となった盛り上がりに、少々びっくり。でも、ナイスなジョークだからと言って、スクリーンに向かって賛辞を贈るのはどうかと・・・。
 

1999年
 6月22日
  市外通話の電話会社から、契約明細が郵送されてきた。しかも2通も。はて、と思ったら、なんと間違っていた電話番号の分まである。電話会社に連絡すると、「お前の電話番号でない方のものを取り消すことは簡単だが、もともとのその電話番号の人の市外通話契約を一旦こちらに切り替えてしまっているので、再び元に戻すことはこちらでは出来ない。元もとの電話番号の持ち主に連絡して、その旨をあなたが伝えねばならない」とのことだった。まったくもって、もっともな話ではあるが・・・。いろいろなことを経験できる国である。
 

1999年
 6月24日
  ボストン交響楽団の監督指揮者である小沢征爾さんが、2002年にボストンを去り、クラシック音楽の世界でベルリン交響楽団と双璧をなすウィーン国立歌劇場の音楽総監督に就任すると昨日報じられ、今日の新聞をにぎわした。我が研究室はクラシック音楽好きが多いこともあって、1日中この話題でもちきり。25年もの間、ボストンの音楽文化を支えてきた小沢さんのすごさをかいま見た気がした。しかし、ボストン市民にとっては悲しいことかもしれないが、世界の頂点に立つ音楽家と同じ日本人としてはこれほどうれしいことはない。小沢さんには、64歳には見えないパワフルな活動を、いつまでも続けて欲しいと切に思う。
 

1999年
 6月25日
  日本からの郵便小包がメールルームに届いている、との連絡をUnited States Post Officeから受けた。当然、郵便局のメールルームだと思ったので、まずは電話で問い合わせ・・・と思ったら、何度かけても(20回はかけたと思う)話し中。仕方なく、直接出向くことにして、大学から40分かけてアパートの郵便を配達している郵便局へ。中へはいると、これがうわさの、と思わず感慨に浸ってしまった有名なフォーク並びの長蛇の列が出来ていた。最後尾に並んで待つこと20分あまり。ようやく窓口で事情を説明すると、「ここにはメールルームなんて言うものはないし、お前の荷物も預かっていない。おそらくアパートにメールルームがあるんじゃないか」という衝撃的なことを言われた。しぶしぶとアパートに戻って管理人に伝えると、「はあ、そんなのは来てないなあ」とまたまた衝撃的な言葉を・・・。じゃあ、どこにあるんだいったい。とにかく、郵便配達人に聞いておくから明日の朝また来い、とのことで今日は引き下がった。何か不安。
 

1999年
 6月26日
  再び朝に管理室に出向くと、まだ郵便配達人は来ていないから、またあとで来い、と言うので大学から戻ってからまた出向くことに。そして、夕方アパートに帰ると郵便配達人からのメッセージがポストに。よし、と喜び勇んで管理室に行くと、なんと荷物は受け取っていないとのこと。郵便配達人は月曜から土曜までの午前中しか来ないから、月曜日に直接会いなさい、とのお達しは、あまりにつらい仕打ちじゃありませんかね。ということで、荷物とは今日も御対面できずじまいでした。
 

1999年
 6月28日
  ついに日本からの郵便小包と涙の対面。確かに「メールルーム」とはアパートに存在していた。しかし、そこは管理室の管理外の、つまり郵便配達人だけが入ることが出来る部屋に、かわいそうに僕の小包はひっそりと何日もの間置かれていたのだ。このアパートを担当している郵便配達人のジムおじさんに、会うなりいろいろと文句のひとつも言おうと思ったのだが、白ひげをたくわえ、ぷっくりと太った体をさも重そうにゆっくりと動かしながら、それぞれ20kg近くある7つもの小包を手渡してくれる姿を見ていたら、口から出てくる言葉は「Thank you!」ばかりだった。・・・ん、日本から送った小包は8つだぞ。といって、ジムおじさんに聞いてももちろん知るはずがなかった。ありゃま、またまたトラブル。残りのひとつは一体どこに行ったのやら。
  ところで、届いた小包を最初に見たとき、「あれこれは自分のかな」と思わず目を疑ったほど、見るも無残に変形していた。日本から船便で荷物を送ったら、あて先が書いてある一番上のふただけが届いた、という経験をした人を知っているが、まさに紙一重の状態だった。おそらくそういう状況になったのだろうが、幸運にも破れたところはガムテープがさらに張られており、傷みのひどい段ボールはさらにひもでくくられていたので、親切な人にこの小包たちは遭遇したのだろう。しかし、外観がこの状況なので、中身は推して知るべしである。茶わんは言うに及ばず、CDのケースはことごとく割れていたり粉々になってしまっていた。さすがにカメラは厳重に包装していたので、難を逃れたのが唯一の救いか。みなさん、海外に荷物を送るときは2階から落としたとしても壊れないくらいにした方が良いみたいです。
 

1999年
 6月29日
  毎週火曜日はミーティングが2つある。しかも、午後7時からと午後8時半から。前半は研究室のメンバー全員が集合する唯一のもので、それぞれの実験報告と、学会やジャーナルの最新情報の交換会となる。そして、その後に共同研究のプロジェクトミーティングが始まる。どうせ火曜日は夜にミーティングがあって実験が出来ないのだから、いっそのことくっつけてやってしまおう、というボスの提案のもとこんなスケジュールになっているのだが、これは合理的なドイツ人の思考法なのだろうか。とにもかくにも、火曜日は英語のシャワーを浴びて1日の疲れを・・・倍加している。
 

1999年
 6月30日
  日本の郵便局から連絡があり、郵便局の手違いにより小包の1つの発送が遅れているとのこと。なんだ、アメリカのポストオフィスの落ち度じゃなく、日本の郵便局が悪かったのか。まったく人騒がせな。しかし、現物が手元に届くまでは安心できない。


最終更新日:1999年 6月 30日
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